て上げような」
「ああ、どうぞ」
 そこで米友は胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]抱えて来た秋草を、明《あ》いた花桶の中へ入れようとして、
「おや、この桶には水がねえや」
「水がありませんかね。それじゃそのままにしておいて下さい、あとから汲んで来て入れますから」
「おいらが汲んで来てやろう」
といって米友は、胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]に抱えた草花を桶の中へさし込みながら、傍《かたえ》の手桶を横目でながめました。
 その手桶を提げると、米友は以前入って来たところから、身軽に外へ飛び出してしまいました。動物園へ動物を寄附する時には食糧附の義務があるように、米友は草花を持って来た好意に添うるに、水汲みの労力を以てすることを、さのみ苦には致しません。これはお安いことです。
 米友はこうして水を汲みに出かけました。そのあとで、駒井甚三郎は、
「婆さん、奉書があれば結構、なければ西の内でも、それもなければ半紙でもよろしい、紙を一枚下さい」
「何になさるんでございますか」
「え、志納金をお寺へ納めて行きたいと思う」
「左様でございますか」
 婆さんは、立って、奉書の紙のいったん使用して皺《しわ》をのばしておいたのを持って出て、
「これでよろしうございますか」
「それで結構」
 駒井甚三郎は一方の脇の床几《しょうぎ》に腰をかけて、花立を置いた前の机の上でなにがしかの金を包み終り、
「婆さん、筆をお貸し」
「はいはい」
 老婆は、蒔絵《まきえ》のある硯箱《すずりばこ》の蓋《ふた》をとって、水をさし、駒井の前へ置くと、駒井は墨をすりながら、
「婆さん、お前は、なかなかよい墨筆を使いますね」
「いいえ、お恥かしうございますよ、あなた様」
「嗜《たしな》みがよい、お前は和歌《うた》をやりますか」
「いいえ、どう致しまして」
 駒井が、それに感心したのは、独《ひと》り住《ず》みの門前婆さんのことだから、筆墨を所望《しょもう》されたら、狼狽してほこり[#「ほこり」に傍点]の溜ったのを吹き吹き、申しわけをしながら、やっと取り出さないまでも、こんなに念の入ったのを出されようとは案外で、どうしても、和歌《うた》の一つも書きつけているものでなければ、こうは嗜みが出来ないはずと思ったからです。
「いや、お前は和歌《うた》をやりそうじゃ、さいぜん[#「さいぜん」に傍点]、あの墓の前でふとお前の姿を見た時に、絵
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