ことに耳をふさぎたがっていた駒井。わかれて後の妻が若い小姓の誰かれを愛したとか、堂上方のあるさむらい[#「さむらい」に傍点]を始終ひきつけていたとか、京都へいった後、ずんと年上な、評判の色悪《いろあく》の公卿《くげ》さんに籠絡《ろうらく》されてしまって、今はそのお妾《めかけ》さん同様に暮らしているとか、聞きたがらない当人の耳へ、わざとするように苦々しいものがひっかかる。
 それは、ドコまで信じ、ドコまで疑うの拠《よ》りどころがあるわけではないが、ただ疑われないのは、彼女の心が決して上へはのぼっていず、無限の下へ下へとおち行く光景だけは、見まいとしても眼の前へ現われてくるのです。
 駒井甚三郎は、そのことを考えて、心の底から戦《おのの》くのを禁ずることができません。
「こちらが伝通院様でございます」
 婆さんが言葉をかけたので、われに返って見ると、
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「伝通院殿
蓉誉智光
大禅尼
 慶長七年一月二十九日」
[#ここで字下げ終わり]
 伝通院殿は無事であります。その展墓《てんぼ》を最後として、駒井は老婆と共に墓地の中を出ることにしました。
 再び門前の店へ戻って、
「まあお休みあそばしませ、粗茶一つ、召上っていらせられませ」
 駒井は老婆の案内に応じて、土間の長い腰掛に腰を卸すと、あとから続いた老婆は、風を厭《いと》うて障子を締めきり、やがて、渋茶の一椀を駒井の前に捧げましたから、駒井はそれに咽喉《のど》をうるおします。
 朝日が、前の木立の間から洩れて、いま締めきった障子に光を投げている。内も外も静かで、本堂から洩れるおつとめ[#「おつとめ」に傍点]の音がよく聞える。
 その時分、締めきった障子の外で、
「おばさん」
「はいはい」
「花を持って来たよ、これをおばさんの店で売るといいや、院代《いんだい》さんにことわってうろ抜いて来たんだよ」
 内では見えないが、障子の外に立ってこういいながら、胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]に秋草を抱え込んでいるのは、宇治山田の米友であります。
「友さん、どうも済みませんね」
 婆さんは障子を少し開いて前から見ると、それは米友が歩いて来たのだか、草花が歩いて来たのだかわかりません。
「どう致しまして」
 胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]に草花を抱いた米友は、婆さんのあけたところから土間の中へ入り込み、
「花桶の中へ入れとい
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