した。
 窓といっても、本来が仮小屋ですから、特にそれがために切ったのではなく、幕を下ろせば壁となり、幕を絞れば窓となるだけの組織ですが、ちょうど、その幕が絞ってありましたから、お角は、その傍へ寄って柱に凭りかかって、外の空気に触れると、ここは高いところですから、眼の下に新しい世界が、新たに展開した心持がしました。
 新しい世界といっても、場内の変幻出没のような夢の国の世界が現われたのではなく、尋常一様の両国回向院境内の世界ですけれども、人気と、眩惑と、根《こん》づかれの空気にのぼせ[#「のぼせ」に傍点]たお角にとっては、その尋常一様がまた新世界のように感ぜらるべき道理でもあるが、ことにその眼の下に現われたのは、回向院の墓地でありました。乱離たる石塔と、卒塔婆《そとば》と、香と、花との寂滅世界《じゃくめつせかい》が、急に眼の下に現われたものですから、お角は目をすま[#「すま」に傍点]しました。
 お角が人いきれの中から面《おもて》を窓の下に曝《さら》すと、そこは回向院の墓地であります。卵塔《らんとう》と、卒塔婆の乱離たる光景が、お角の眼と頭とを暫しながら、思いもかけない別の世界に持って行きました。
 お角は、その荒涼たる人生の最後の安息所を、我を忘れて見下ろしていた間は何事もありませんでした。
 そのうちに、墓地の一方の木戸をあけて、静かに内部へ足を運んで来る二人づれのお墓参りのあったことを気づいたまでも無事でありました。
 一方、魔術の世界の華麗と、眩惑に浸っている群衆と、また一方、こうしてしめやかに人生の最後の安息所へのお参りに足を運ぶ人とが、背中合わせになっている。それをお角は、やはり無心にながめて、頬のほてりを冷している。お墓参りの二人の者もそれを知らず、まだ新しい木標《もくひょう》の前に近づくと、二人のうち、案内に立ったお屋敷風の小娘が、
「ここでございます」
で、手にかかえていた阿枷桶《あかおけ》をさしおくと、それに導かれて来た、塗笠に面《おもて》を隠した人柄のある一人のさむらい[#「さむらい」に傍点]。
 手に携えていた香華《こうげ》を、木標の前の竹筒にさして、無言に立っていると、娘は阿枷の水を汲んで、墓木《ぼぼく》と花とに注《そそ》いでいる。
 塗笠のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、木標の前に立って、軽く頭《こうべ》を下げて、感慨深く立っている。
前へ 次へ
全144ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング