ります」
 外行のような挨拶をして、そっと見物席の後ろへ廻ろうとすると、お角が、またそれを呼び留めて、
「かまわないから御簾《みす》の桟敷のね、あいているようなところへ入って、ゆっくりごらん」
「有難うございます」
 お梅は再びお辞儀をして行ってしまいます。
 まもなく、見物席の背後から隠れるようにして、正面東側、そこに御簾をかけた一列の桟敷の後ろへ来て、お梅は怖々《こわごわ》とその一端を覗《のぞ》いて見ました。
 ここに、御簾の桟敷というのは、小屋がけとしては異例の設備であります。けばけばしくはないが、ともかく、この一列は御簾を下げてあって、ある一組の連中もここから忍んで見られるし、個人個人もまたここから多数の目を避けて、演芸だけを見得ることのような組織になっていました。
 こういうことは、誰かしかるべき黒幕があって、相当の身分あるものの、市井《しせい》を憚《はばか》る見物のために、特に用意をしたものと見なければなりません。木戸口からは、どうもここへ案内されたものを見たことがないから、多分この表の水茶屋から案内された特別の客だけが、前約あって、ここへ送られて来るはずになっているものと見えます。すべての観覧席は、爪も立たぬほどの大入りとなって、入場謝絶に苦しんでいる際に、ここだけは充分の余裕を残して、いついかなる人をも迎え得るようにしてあります。すでに、御簾《みす》の蔭からうかがうこの席の見物の中には、頭巾《ずきん》を取らない武士《さむらい》もあれば、御殿女中かと見られる女の一団もあります。
 お梅は親方から許されて、怖々《こわごわ》この桟敷の一端を覗いて見ると、幸いに、そこは八人詰ほどの仕切られた席が残らずあいていましたから、そっと入って、片隅に身を寄せ、手すりに軽く肱《ひじ》を置いて、改めて落付いた見物気分を起しました。
 この時は、もう楽屋も総出で、広小路の女軽業から手隙に来た連中も、争って、次に行われるジプシー・ダンスを見学しようとして最寄《もより》最寄《もより》へ出て行ったあと、お角は秘蔵の娘分のお梅まで出してやったものですから、この盛んな、この広い、この気忙しい中で、しばらく気を抜いたようなひとりぼっち[#「ひとりぼっち」に傍点]になると、思わずホッと吐息をついて、のぼせた頬を、ちょっと両手でおさえてみて、それから楽屋の窓の所へ、思わず凭《よ》りかかりま
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