てみたところで、その時分の人の驚異は、必ずしも今日の人の驚異ではない。ただしかしその時の見物は、さし換《かわ》る番組と、登場者の風俗と、それに伴奏するさまざまの楽器の音と、使用の装飾の道具類とが、見るもの、聞くもの、異常の刺戟でないということはなく、その眩惑《げんわく》のために、半畳《はんじょう》のための半畳を抑え、弥次のための弥次を沈黙させただけの効果と、堪能《たんのう》とは、たしかに存在したものであります。見物は、たしかに今までに見ないものをみせられたことに、沈黙の満足を表現しているといってよろしい。
 ことに、その準備と訓練がよく行届いていたせいか、番組の進行、道具方や介添《かいぞえ》までが、キビキビした働きぶり、スカリスカリと歯切れがよく進んで行く興行ぶりは、従来、演芸の吉例(?)としての、初日の不揃いとか、幕間《まくあい》の長いとかいうような見物心理の圧制から解放されて、気の短い、頭の正直な見物を嬉しがらせたことは非常なものです。
 演技で酔わされた人が、ホッと我に返ると、
「時間と、幕間は、西洋式に限りますな」
 その西洋式の讃美者は、この興行主のお角が諸肌《もろはだ》を脱いで、江戸前の刺青師《ほりものし》に、骸骨の刺青を彫らせていることを知るものがない。
 前芸の棒飛び、縄飛び、輪投げ、輪廻しといったのは、鍛練した技術で、眩惑の手品ではない。第一番目から手品が一枚加わって――それから四番、五番と立てつづけに、大道具、大仕掛で、華麗と、眩惑と、濃厚と、変幻の異国芸の花々しさを、息をもつかせず展開しておいて、六番目に、
「ジプシー・ダンス」
 この幕間に、ちょっと手間がかかりました。
「何しろ驚いたものですな、今度はジプシー・ダンス。ええと、つまり西洋の手踊りといったようなものだそうで」
 お茶を飲み、煙草を吸って休養を試みているところへ、春日長次郎がまた改めて口上言いに出ました。
 これより先、開場の前までは、場内を隈《くま》なくめぐって気を配っていたお角、開場と共に、楽屋と表方の間に隠れて、始終の気の入れ方を見ている。
「梅ちゃん、この次は西洋の踊りですから、向うへ行って、よく見てごらん」
 附いていたお梅に、参考としてのジプシー・ダンスを見学さすべく、お附の役目を解いて暫時のお暇を与えると、娘分のお梅は有難く、喜んでお受けをして、
「それでは行って参
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