「殿様、どうぞ、お水をお上げくださいまし」
 娘は杓柄《ひしゃく》を武士の手に渡すと、それを受取った武士は、墓に水を注いで、
「この文字は誰が書きました」
「御老女様からのお頼みで、大僧正様が書いて下さいました。御老女様は、そのうちお石塔を立てて、そのお石塔の後ろへ、朝夕《あしたゆうべ》の鐘の声、という歌を刻んで上げたいとおっしゃいました」
 高いところで、見るともなしに見ているお角の耳へは、無論この二人の問答は入りませんが、満地の墓碣《ぼけつ》の間にただ二人だけが、低徊《ていかい》して去りやらぬ姿は、手に取るように見えるのであります。そこで、お角は早くも、これはしかるべき大身のさむらい[#「さむらい」に傍点]が、微行《しのび》で、ここへ参詣に来たものだなと感づきました。表には憚るところがあって、この娘だけが一切の事情を知っていて、お殿様の案内をして、こっそりと参詣に来たものだなという感じは、お角のような打てば響くところのある女性には、見て取ることが早いと見えます。
 その大身のさむらい[#「さむらい」に傍点]と思われる人品のあるのは、最初から笠に面を隠していますから、その何者であるやは確かにはわかりませんが、羅紗《らしゃ》の筒袖羽織に野袴を穿《は》いて、蝋鞘《ろうざや》の大小を差し、年は三十前後と思われるほどの若さを持っているのが、爽やかな声で言います、
「それから、あの奇怪な風采《ふうさい》をした少年、少年といおうか、或いは若者といおうか、正直にして怒り易い、槍に妙を得た、あれの幼馴染《おさななじみ》といった男は、どうしていますか。あの男を、そなたは御存じか……君《きみ》は絶えずあの男に逢いたがっていたのだが……」
「ああ、米友さんのことでございますか……」
と娘が答えた時に、大魔術の小屋で大太鼓と金鼓《きんこ》の音がけたたましく、鳴り出しましたから、墓地の中の二人も、これに驚かされ、問答の半ばでふたりいい合わせたように、この高い天幕の小屋を見上げますと、そこで計らずも、窓から見下ろしていたお角と面《かお》を見合わせました。
「おや?」
と驚いたのはお角です。こっちは窓に人がいると気づいただけですけれども、お角はこの墓地の中から、笠の面《おもて》を振上げたその中の人を見て、驚いてしまいました。その人は、もとの甲府勤番支配、駒井能登守に相違ないと思ったからです。
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