の迷うていることもその一つかも知れない、金があれば、ここまで深入りをせずともよかろうものをと思われないではないが……」
と兵馬はいいかけて、また打悄《うちしお》れてしまいます。実際、今の兵馬の場合は金の問題で、怨みもない人を殺《あや》めようと決心を起したのも、せんじつめればそれです。七兵衝からそこへ水を向けられてみると、渡りに舟のようなものではあるが、なんといっても相手がこの田舎老爺《いなかおやじ》では、お歯に合わないほどの金が要ると思うから、親切は有難く思っても、いっそう打悄れるのが関の山です。ところが七兵衛は、存外に腹がいいと見えて、
「それは何よりです、金で思案がきまることでしたら、及ばずながら私が骨を折ってみようではございませんか。いったい差当りお前様は、どのくらいお金がおありになればよろしいのでございますか」
「いいや、それはいうまい、いうたとて詮《せん》のないことじゃ、今までもそなたには、随分世話になっているのに――」
「まあ、おっしゃってみて下さい、七兵衛の手で出来ればよし、出来なければ出来ないと申し上げるまでですから――」
「正直にいってみると、差当り三百両ばかりの金が要ります」
「三百両……」
 七兵衛は、そこで、ちょっと黙ってしまったのは、むろん後込《しりご》みをしてしまったものと兵馬は諦《あきら》め、いっそこんなことをいわない方がよかったと思っていると、七兵衛は率直に、
「よろしうございます、私が、きっとその三百両をあなた様のために、三日のうちに調《ととの》えて差上げましょう。その代り私から、あなた様に一つの願いがございます」
 そこで兵馬が意外の思いをしているのを、
「お願いというのはほかではありません、あのお松のことでございます。あの子は私が大菩薩峠の上で拾って来た、かわいそうな孤児《みなしご》なんでございます、私だって、いつまでもあの子の後立てになっているわけには参りませんし、それに、私が後立てになっていたんでは、あの子のために末始終、よくないことが起るかも知れませんので……どうかあなた様に、行末永く、あの子の面倒を見てやっていただきたいのでございます」
 こういって改まって、お松という女の子の身の上を頼みます。
「それはよく心得てはいますけれども、今の拙者の身では、人の力になってやることができない」
「それは嘘でございます」
 七兵衛は少しく膝を進ませて、
「人の力になってやるのやらないのというのは、心持だけのものです、あなたの心を、お松の方に向けてやっていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
「拙者の心持は、いつもあの人に親切であるつもりだが……」
「ところが、あの子の方では、わたしの親切が足りないから、兵馬さんに苦労をさせるのだと、この間も泣いておりました。私はお若い方に立入って、野暮《やぼ》なことは申し上げるつもりはございません、あなた様が、第一にあのお松を可愛がってやっていただけば、それから後のことは、とやかくと申し上げるのではございません」
といって七兵衛は、何か思い出したように台石から立ち上り、社《やしろ》の木立から少しばかり街道筋へ出て天を見上げ、
「それでは、兵馬様、私はこれから三日の間に、あなた様のお望みだけのお金を調えて――そうですね、ドコへお届けしましょうか、ええと……浅草の観音の五重の塔の下でお目にかかりましょう、時刻は今時分、あの観音様の前までお越し下さいまし、その時に間違いなくお手渡し致します。今夜は雨が降るかも知れません、私はちょっと側道《わきみち》へ外《そ》れるところがございますから、これで失礼を致します」
といって七兵衛は、そのまま風のように姿を闇に隠してしまいました。
 そこで兵馬は、社の木立の深い中をたどって、社務所の方へ帰りながら、
「わかったようでわからぬのはあの七兵衛という人だ、金を持っているのか、持っていないのか、トント判断がつかぬ。どこにか少なからぬ小金《こがね》を貯えていて、表にああして飄々《ひょうひょう》と飛び廻っているのか知ら。いつもと違って今宵は三百両というなかなかの大金である、それを事もなげに引受けて、三日の期限をきったところには信用してよいのか悪いのか、とんと[#「とんと」に傍点]夢のようである。しかし、今まであの人の約束を信じて、ツイ間違ったことがない、それで、ここでも約束通りに信を置いて間違いないだろうか知らん」
と胸に問いつ答えつしていたが、やはり夢のようです。果して易々《やすやす》とその要求するだけの金が手に入ったならば、自分の今の苦痛はたちどころに解放される。解放されるのは自分だけではない、苦界《くがい》に沈む女の身が一人救われる。そうして、金にあかして、愛もなければ恋もない女を買い取ろうとする色好みの老人の手から、本当に愛し合っている人の手に取り戻すことができる。自分の本望、女の喜び、それを想像すると、兵馬はたまらない嬉しさにうっとりとする。
 うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい閨《ねや》の燃えるような夜具の中に、くるくる[#「くるくる」に傍点]と包まれてゆく心持になってゆく時、ヒヤリとして胸を衝《つ》いたものは、
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の一言《ひとこと》がそれです。

         十四

 狭山《さやま》の岡というのは、武蔵野の粂村《くめむら》あたりから起って、西の方、箱根ヶ崎で終る三里ほどの連岡《れんこう》であります。武蔵野の真中に、土の持ち上っただけのもので、その高さ二百歩以上のところはなく、秩父《ちちぶ》から系統を引いているわけではなく、筑波根《つくばね》の根を引いているわけでもなく、いわば武蔵野の逃水《にげみず》同様に、なんの意味もなくむくれ[#「むくれ」に傍点]上って、なんの表現もなく寝ているところに、狭山連岡の面白味があるのです。
 狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天の祠《ほこら》がまつられてある。府中の六所明神の社頭で兵馬と別れた七兵衛が、ひとり、こっそり[#「こっそり」に傍点]とこの弁天の祠に詣でたのは、その翌日の真昼時であります。
 七兵衛は弁天様にちょっと[#「ちょっと」に傍点]御挨拶をしてから、その縁の下を覗《のぞ》き込んで手を入れて探すと、蜘蛛《くも》の巣の中から引き出したのが、一挺の小鍬《こぐわ》であります。この鍬を片手に提げると、池のまわりを一ぺん通り、西の方へまわって、松の大樹の落々《らくらく》たる間へ進んで行きました。この辺、数里にわたって、見渡す限りの武蔵野であります。
 七兵衛は池尻の松の大樹の林の中を鍬を提げて歩いて行き、一幹《ひともと》の木ぶり面白い老樹の下に立って、いきなり鍬を芝生の上へ投げ出すと、その松の根方に腰をおろしました。
 そこで煙草入を取り出して、燧《ひうち》を切って一ぷく吸いつけると、松風の響きが鼓《つづみ》のように頭上に鳴り渡ります。七兵衛は、松の木立の隙間《すきま》から、晴れた空をながめやり、暫くその空の色に見恍《みと》れていたようでしたが、やがて、思い出したように煙管《きせる》をハタハタとはたくと、再び立ち上って、例の小鍬を無雑作に拾い上げ、いま自分が坐っていたところから二尺ほど離れた大地の上へ、軽くその鍬先を当てたものです。
 七兵衛はここへ、何物かを掘り出しに来たものに相違ない――この男は改めて説明するまでもなく、極めて足の迅《はや》い奇怪な盗賊であります。一夜に五十里を飛ぶにはなんの苦もない足を持っていて、郷里の青梅宿《おうめじゅく》を中心に、その数十里四方を縄張りとし、その夜のうちに数十里を走《は》せ戻って、なにくわぬ面《かお》をして百姓をしているから、捕われる最後まで、誰もそれを知るものがなかった男であります。
 甲所で盗んだ金は乙所へ隠して置き、乙所で掠《かす》めたものは丙所へ埋めて置いて、自分は常に手ごしらえの絵図面を携帯し、それへいちいち朱点を打っておいて、時機に応じ、必要に従って、その金を取り出す習いになっているのだから、ここへこうして鍬を持って来てみれば、もうその目的は問わずして明らかなのであります。昨夜、六所明神の社前で、宇津木兵馬に誓っておいただけの金子《きんす》を、この貯えのうちから引き出しに来たものと思えば間違いはありますまい。
 兵馬は、今日まで、ずいぶんこの男の世話にはなっていたけれども、ただ、こういった義侠的の人に出来ているのだろうと思うよりほかは、考えようがなかったもので、果してこうと覚《さと》ったなら、その恩恵を受けられよう道理がなかったのですが、このことは兵馬が知らないのみならず、誰も知っていないので、ただがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というならず[#「ならず」に傍点]者だけが心得てはいるが、これとても最初からの同類でもなんでもなかったのです。
 果して七兵衛は、熱心に芝生の上を掘りはじめました。下は軟らかい真土《まつち》で、掘るに大した労力がいるわけでもなく、たちまちの間に一尺五寸ほど掘り下げると、鍬《くわ》を抛《ほう》り出して両手を差し込み、土の中から取り出したのは、油紙包を縄でからげた箱のような一品で、土をふるって大切《だいじ》そうに芝生の上へ移し、再び鍬を取って、以前のように地均《じなら》しをはじめていると、またも晴れた嵐が松の枝を渡る時、
「兄貴、何をしているのだ」
 悪い奴が来たもので、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が風のようにやって来て、いつか後ろに立っているのでした。
「百、何しに来たんだ」
 悪いところへ悪い奴と思って、七兵衛が苦りきっていうと、百蔵は洒唖《しゃあ》として、
「日光街道の大松原で、ふと兄貴の後ろ姿を見かけたものだから、こうしてあとをつけてやって参りましたよ」
「油断も隙もならねえ」
 七兵衛が鍬をついてがんりき[#「がんりき」に傍点]をながめていると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、その鍬と七兵衛の掘り出した油紙包の箱と両方へ眼をくれながら、
「ひとつ折入って兄貴にお聞き申したいことがあって、それ故、おあとを慕って参りました」
「それはいったい、どういうことを聞きたいのだ」
「ほかでもありませんが、この道中筋を横と縦へ向って、今がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がしきりに捜し物をして飛び廻っているという次第ですが、その捜し物というのは、兄貴の前だが……」
「わかってる、わかってる」
 七兵衛は頭を振って、
「手前《てめえ》が、そうしてのぼせ[#「のぼせ」に傍点]切って東西南北を血眼《ちまなこ》で馳け廻っている有様を見ると、おれは不憫《ふびん》で涙がこぼれる、仕舞《しまい》の果てにはなけなしの、もう一本の片腕をぶち落されるくらいが落ちだろう……色狂《いろきちが》い!」
「その御意見は有難えが、時のいきはり[#「いきはり」に傍点]で、つい引くに引かれねえ場合なんだから、どうか友達甲斐に、このがんりき[#「がんりき」に傍点]の男を立ててやっておくんなさいまし」
「馬鹿野郎!」
「まあ、そうおっしゃらずに……ときに兄貴、いったいこれからがんりき[#「がんりき」に傍点]はどっちへ振向いたら目が出るんでございましょう、そこのところをひとつ」
「おれは易者ではないから、そんなことは知らねえ」
「それが兄貴の悪い癖なんだ、目下《めした》の者をあわれむという心が無《ね》えんだから」
「よし、それじゃ、お情けに一つ言って聞かそう。およそ、甲州の裏表、日光の道中筋で、この間中から、俺は三つの怪しい乗物を見たんだ、その一つは高尾の山の蛇滝《じゃだき》の参籠堂から出て、飯綱権現《いいづなごんげん》の広前《ひろまえ》から、大見晴らしを五十丁峠へかかった一つの山駕籠と、それからもう一つは
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