あの峠へ登って、お堂の屋根を葺《ふ》いて来ますから」
「それはなかなかお骨折りですね、ずいぶん費用もかかることでしょう」
「なあに、それでも、ぽつぽつ寄進についてくれる人がありますでね……わしが一人で、こつこつと木を運んだり、石を運んだりして、どうやらお堂の形が仕上りました」
「まあ、できないことですね。ですけれどもね、与八さん、一人で行くのはおよしなさい、あんなこわいところへ」
「なあに、別段こわいことはありゃしませんよ」
「いいえ、あんなおそろしいところはありません、思い出しても怖《こわ》いところ。わたしのお爺さんは何だって、本街道を通らないで、わざわざあんなおそろしい道を通ったのでしょう。わたしはあの時のことを思い出すと、くやしくってくやしくって。あの峠を通りさえしなければ、お爺さんもあんな目にあわず、わたしもこれほど苦労はしないで済むものを、恨みなのはあの峠です。菩薩なんて誰が名をつけたんでしょう、悪魔峠か、夜叉峠《やしゃとうげ》でたくさんですわ。おそろしい峠、にくらしい峠、いやな峠」
「峠が悪いんじゃないでしょう、人間が悪いんでしょう」
「ああ、人間が悪い。あの悪い奴はまだ生きてるんでしょうか。何の罪も恨みもない、わたしのお爺さんを、あの峠の上で斬ってしまった悪い奴は、机竜之助というんですってね……ほんとうに悪い奴、兵馬さんの兄さんを殺したのもあいつの仕業《しわざ》ですってね。あんな奴ですから、まだほかにどのくらい人を殺しているかわかりゃしません。何だって神仏はあんな人間を、この世に生かしておくんでしょう。それから、気の知れないのは兵馬さんの姉さん。どうしてあんな悪い奴を好いて、兵馬さんの兄さんのようなよい人を棄てたんでしょう、ほんとにあれこそ魔がさしたんですね」
お松は、このことになると、我を忘れて、口を極めて、悲憤がほとばしり、そうしてところと人とを呪うのが日頃とは別人のようで、
「ほんとうに大菩薩峠は、悪魔峠です」
その時、何に驚いたか、与八の膝に抱かれていた郁太郎が、けたたま[#「けたたま」に傍点]しい声で泣き出しました。その泣き声に誘われてか、お松の抱えていたみどり[#「みどり」に傍点]児も、悲しい声で泣き出しました。
三十八
二人の子供が申し合わせたように泣き出したものですから、二人の守《もり》は、あわててそれをなだめにかかりました。
子供が泣きやんで笑顔をつくると、呪わしかったお松の気色《きしょく》も、忘れたように笑顔になりました。
それから二人は、一別以来のことを何かと打語らい、現在の生活ぶりをおたがいに話し合った中に、与八の生活もこのごろはすこぶる多忙で、ことに感心なことは日頃心がけて、附近の山々のあきちへ杉苗を植えたのが、早や三千本になるという話。水車も二三本|杵《きね》を増して、人を雇うて働いてもらっているという話。その他、何かと近処から相談を持ち込まれて、世話をしてやっているという話。
お松もまた、兵馬の身の上のことは口に出さず、自分としてはこのごろの生活は安定もあり、人の贔屓《ひいき》も受けているし、自分も働き甲斐があることを物語りました。
その晩はこの屋敷へ泊って、翌朝ここを立って武州の沢井へ帰ろうとする与八に、よい道づれが出来ました。
恵林寺の慢心和尚も、同じところを出でて甲州へ帰ろうとするところ。
和尚は錫杖《しゃくじょう》をついて、笠をかぶり、袈裟衣《けさごろも》に草鞋《わらじ》を穿《は》こうとして式台に腰をかけているところを、郁太郎を背負っている与八が、跪《ひざまず》いて恭《うやうや》しくその草鞋の紐を結んでやりますと、
「うん」
といって、自分の手を休めた慢心和尚が、傲慢な態度で与八に紐を結ばせておりましたが、与八が丁寧に結び終って後、和尚の背後には、数多《あまた》の豪傑連が送りに出ているのに、和尚は容易に動こうともしないで、与八の姿をじっとながめていたが、
「ああ」
と感嘆の声を洩らし、そのまま与八の手を取ると、自分の腰をかけていたところへ腰をかけさせて、自分はその前へ土下座をきり、三たび与八に向って礼拝《らいはい》して出かけましたから、見送るほどの者共が、和尚気がちがったのではないかと怪しみました。
やがてこの道づれは滞りなく江戸の朱引内《しゅびきうち》を出てしまって、例によっての甲州街道を歩み行くうちに、どちらが先ということもなく、二人が話をはじめる。
慢心和尚の、与八に対する態度というものは、打って変った親切を極めたもので、その話しぶりなども、噛んで含めるほどに優しいものになっていることが不思議です。
与八から尋ねられて、和尚は欣《よろこ》んで、慧能大師《えのうだいし》の石臼の物語をはじめ、
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「慧能ガ厳父ノ本貫ハ范陽《はんよう》ナリ。左降《さこう》シテ嶺南ニ流レテ新州ノ百姓トナル。コノ身不幸ニシテ父又早ク亡《もう》ス。老母|孤《ひと》リ遺《のこ》ル。南海ニ移リ来ル。艱辛貧乏。市《まち》ニ於テ柴ヲ売ル」
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といって、貧乏のあまり、薪を売って母を養っていたことから、ふとお客様が金剛経を誦《じゅ》するを聞いて開悟し、黄梅の五祖|弘忍大師《こうにんだいし》のところへ行って米を舂《つ》いて允可《いんか》を受け、ついに達磨大師以来六代の伝衣《でんえ》を受けて、法流を天下に布《し》いたこと、その米舂《こめつ》きの因縁と石臼のことなどを細かに物語って聞かせたのみならず、本来は本街道を通って帰らるべきものを、与八のためにわざわざ裏街道へ廻って、多摩川の岸を沢井まで、送らるべき人が送る身になって、とうとう与八の水車小屋へ一晩泊り込みました。
それのみならず、その翌日は、この水車の仕事が面白いといって、和尚は法衣《ころも》の袖を高くからげて、米搗《こめつ》きから、粉挽《こなひ》きから、俵の出し入れから、水門の上げ下ろしから、穀物の干場の仕事まで、与八を助けて、せっせと稼いで、その稼ぎぶりの確かなことに本職の与八を驚かせ、夕方になると、さっさと出発してしまいました。
慢心和尚が裏街道を甲州へ入った時分、宇津木兵馬は上野原の月見寺を出て行方不明になりました。行方不明というのは、西の方、恵林寺へ再び戻る気配もなく、東の方、江戸の地へ足を踏み入れた様子もなく、あれから横へ外《そ》れて、つまり甲武信三州の山々の群がる方面へと入り込んでしまったのです。しかし、それも一人ではありません。寺に逗留《とうりゅう》しているうちに遊びに来た猟人《かりうど》の案内で、三日分ほどの食糧を携帯したままで、山を分けて入り込んでしまったのです。
それからまた一方、寺の娘のお雪が机竜之助と共に、案内知った久助を先に立てて、信州の白骨の温泉へと志したのは間もないことでありました。白骨の温泉はよく人を活かすべく、また人を殺すべしと言った弁信法師は、あれ以来、留立てをせず、この一行の駕籠《かご》の出立する時も、見えない眼で見送りをし、無事を祈って、自分は少なくともその帰るまで、この寺に留《とど》まることを約束しました。弁信が留まれば、おのずから清澄の茂太郎も留まります。
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法隆寺の夢殿《ゆめどの》で
浮世烏《うきよがらす》が
こう鳴いた
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
斑鳩《いかるが》の陣太鼓
おしとど、おしとど
追いこんで
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
生れた奴は罰当《ばちあた》り
明日《あした》死んではかわいそう
かわいそうだが若緑
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
天朝様も米の飯
おいらの方でも米の飯
狼様はドコへ行った
滝の上の三船山
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
カマキリ三枚
飛び飛んで
夕張丘《ゆうばりおか》へ蟇《がま》が出た
葛城山《かつらぎやま》へ虹《にじ》が出た
三枚草履がホーイホイ
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
飛鳥《あすか》の山では火が燃える
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
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その晩、清澄の茂太郎は寺の庭へ出て、ささら[#「ささら」に傍点]をすりながら器量いっぱいの声で歌い出すと、弁信が、
「茂ちゃん、もうお月様が出ましたか」
「いいえ」
「お星様は」
「まだ」
と答えた茂太郎は、
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くらがり峠で日が暮れた
ようどう峠で夜が明けた
おっしゃらしゃらしゃら
しゃあらしゃら
[#ここで字下げ終わり]
暗い中で、ささら[#「ささら」に傍点]をすって器量いっぱいに歌をつづけましたが、興に乗じたと見えて、ついに無我夢中でおどりだしました。
底本:「大菩薩峠7」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
2003(平成15)年4月20日第2刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 四」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋、門田裕志、富田倫生
校正:原田頌子
2004年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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