買い取ろうとする色好みの老人の手から、本当に愛し合っている人の手に取り戻すことができる。自分の本望、女の喜び、それを想像すると、兵馬はたまらない嬉しさにうっとりとする。
うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい閨《ねや》の燃えるような夜具の中に、くるくる[#「くるくる」に傍点]と包まれてゆく心持になってゆく時、ヒヤリとして胸を衝《つ》いたものは、
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の一言《ひとこと》がそれです。
十四
狭山《さやま》の岡というのは、武蔵野の粂村《くめむら》あたりから起って、西の方、箱根ヶ崎で終る三里ほどの連岡《れんこう》であります。武蔵野の真中に、土の持ち上っただけのもので、その高さ二百歩以上のところはなく、秩父《ちちぶ》から系統を引いているわけではなく、筑波根《つくばね》の根を引いているわけでもなく、いわば武蔵野の逃水《にげみず》同様に、なんの意味もなくむくれ[#「むくれ」に
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