上へあがることをさえ憚《はばか》った女が、今はかえって名残りを惜しんで、立たせともなき風情《ふぜい》であります。
「ああ、そうでした、わたくしはいつぞやお約束の餞別《せんべつ》を、あなたに差上げるつもりで持って参りました」
と言って、女は立って扉を押し、
「駕籠屋さん、あの刀をちょっとここへ貸して下さいな」
 やや離れた行衣場《ぎょうえば》に、同じく焚火にあたり、無駄話をしていた二人の駕籠屋を呼びます。

         三

 女は駕籠屋《かごや》から刀箱を受取って、それを改めて竜之助の前に置いて、
「あなた、この刀には、なかなか因縁《いんねん》があるのでございます」
「何という人の作か、それを聞いておきましたか」
といって竜之助は、箱の紐に手をかけてほどきはじめました。
「ええ、銘がございますそうです」
「在銘ものか。そうしてその銘は?」
 箱の中から萌黄《もえぎ》の絹の袋入りの一刀を取り出して、手さぐりで、その紐を払うと、女は燭台《しょくだい》をズッと近くへ寄せて、
「どうか、よくごらんなすって下さいまし、こういうものばかりは見る人が見なければ……」
「その見る人が、この通りめ
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