うあすこまで行った」
「あッ!」
と若いのが青くなったのは、今も今の話、天狗様の夜歩きを、この男は生涯に二度見たからです。二人の見合わせた面は真蒼《まっさお》です。
「さあ、いけねえ」
 慄《ふる》えがとまらないでいる。この時遅しとでもいおうか、谷と沢の間から、徐々として白いものが流れ出すと、峠や峰の横合いからも、ひたひたとその白いものが流れ出して来るのです。
 気のついた時分には、月の光も隠れておりました。
「さあ大変! 天狗様のお告げ通りになったぞ」
 彼等は、いま立去った旅人を人間とは見なかったように、いま捲き起った霧を、単純な天変とは見ることができないで、戦《おのの》きはじめました。
「旦那様、旦那、どう致しましょう、いっそ駕籠《かご》を戻しましょうか、それとも千木良《ちぎら》の方へでも下りてしまいましょうか」
 根が正直な土地の駕籠屋だけに、まじめになって駕籠の中の客に相談をかけると、その理由を知ることのできない竜之助は、
「どうして」
「今晩は、いけない晩でございますよ」
「何がいけない」
「お聞きになりましたか、今、怪しい旅の人が、煙草の火を借りて参りました、それが、その
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