く、自分たちが今たどって来た道筋から起ったかと思うと、月影に見ゆるのは、旅人らしい一箇の人影です。
「今晩は」
 その人影は早くも、休んでいた駕籠の傍へ来た。先方から挨拶の言葉で、二人の駕籠屋があわてました。
「今晩は」
「いいあんばいに、雨があがりましたね」
「ええ、いいあんばいに雨があがりましたよ」
「どちらへおいでになりますね」
「ええ、上野原の方へ。急病人がありましたのでね」
「それは、それは」
といって、旅人はお辞儀をして、その駕籠のわきの細道を通りぬけようとして、また踏みとどまり、
「済みませんが、火を一つお貸しなすって下さいまし」
「さあ、どうぞ」
 この旅人は、棒鼻の小田原提灯の中の火が所望と見えて、懐ろから煙草入を出すと、その面《かお》を提灯の傍へ持って行きました。駕籠屋は心得て提灯を外《はず》して、その旅人の鼻先に突きつけてやりながら、その面を見るとかなりの年配で、堅気の百姓のようでもあるし、何か一癖ありそうにも見えますが、物ごしは最初から丁寧で、好んでこの夜道を突切りたがる男とは見えません。
「いや、どうも有難うございました」
 吸いつけた煙草をおしいただいて、お
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