福村は、
「そんなものはいりません、早く飯《まま》が食べたいのです」
「いま、食べさせて上げるから、おとなしくしておいで」
「あい、さむらい[#「さむらい」に傍点]の子というものは、腹が減ってもひもじうない……それよ、今日はまた珍しい人に、二人までぶっつかって来ましたよ」
「珍しい人……誰?」
「一人は両国の女軽業の太夫元のお角さん……」
「いやな奴」
 お絹は心からお角を好いていない。お角の方も御同様でしょう。
「そのうち、日光へ参詣を兼ねて、一緒に大中寺《だいちゅうじ》の御大《おんたい》をたずねる約束をして来たから、近いうちここへやって来ると思う、やって来ましたら、どうぞお手柔らかに」
「知らない」
 お絹が横を向くと、福村は改めて、
「御機嫌を直して下さい、もう一人は、決してあなたの嫌いな人ではありません、あのあなたの娘分のお松どのに逢って来ましたよ」
「お松に、どこで?」
「通油町の鶴屋で」
「あの子はこっちへ来ていたのか知ら。来ていたんなら、わたしのところへ面《かお》を出しそうなもの。薄情な娘《こ》。何をしていました」
「お屋敷奉公なんだろうが、そのお屋敷というのが……」
 
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