ん》がゆきません。しかし、店頭を離れてから、福村が、
「ともかく珍しい、ぜひ遊びにやって来給え――ええと、拙者のところは小石川の茗荷谷、切支丹屋敷に近いところで、いやに傾《かし》いだ長屋門を目安に置いてたずねれば直ぐ知れる。君のお師匠様も一緒にいるよ」
「え、お師匠様が?」
 お松はギョッとしました。

 やがて夕方になると福村は、しばしば標榜《ひょうぼう》していた通り、茗荷谷の切支丹屋敷に近い長屋門のイヤに傾いだ一方に、福村の名を打ってある、己《おの》れの屋敷へ戻って来ました。
 帰って見ると、お絹は火鉢にもたれながら、しきりに絵本に読み耽っているところであります。丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った、いかにも色っぽい後家さんといった風情《ふぜい》。
「やれやれくたびれた」
 その前へ無遠慮に胡坐《あぐら》をかいた福村。
「お帰りなさい」
 お絹は絵本を畳の上へ伏せて、乳色をした頬に、火鉢のかげんでぼーっと紅味《あかみ》のさした面《おもて》を向けて、にっこり[#「にっこり」に傍点]と笑う。
「おみやげ」
「なあに?」
 福村は懐ろからふくさ[#「ふくさ」に傍点]包を取り出して、
「通油町の
前へ 次へ
全338ページ中141ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング