てしまったのは自分が至らないからだと、お松は残念でたまりません。お松はまたこんなことも、内々|気取《けど》りもし、聞いてもいたのです。それは自分を養女として仕込んでくれたお師匠様のお絹が、兵馬を誘惑したことも一度や二度ではなかったこと。お君でさえが、一時は兵馬にぽーっとしていたこともある。そういう誘惑が数々あるのに、それを受けつけなかった兵馬の一徹なところは、自分としても暗《あん》に勝利のほほえみを以て迎えていたのに、今となって、色を売る女風情《おんなふぜい》に、あの人の心全部を奪われてしまったとなると、お松の気象では、泣いても泣き足りないほどの口惜《くや》しさがあるのも無理がありません。
 果して誰の力でも、兵馬さんを、もとの人にすることはできないのか知らん。七兵衛のおじさんは旅にばかりいて落着かないし、今、兵馬さんが、先輩として敬服しているのはここの南条先生であるが、あの先生もあんまりたより[#「たより」に傍点]ない。兵馬さんを指導する恩人として見てよいのか、或いは兵馬さんをダシに使って嗾《そそのか》しておられるのか、もう少し手強《てごわ》い意見をして下されたら……お松はあまりの残
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