少しく膝を進ませて、
「人の力になってやるのやらないのというのは、心持だけのものです、あなたの心を、お松の方に向けてやっていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
「拙者の心持は、いつもあの人に親切であるつもりだが……」
「ところが、あの子の方では、わたしの親切が足りないから、兵馬さんに苦労をさせるのだと、この間も泣いておりました。私はお若い方に立入って、野暮《やぼ》なことは申し上げるつもりはございません、あなた様が、第一にあのお松を可愛がってやっていただけば、それから後のことは、とやかくと申し上げるのではございません」
といって七兵衛は、何か思い出したように台石から立ち上り、社《やしろ》の木立から少しばかり街道筋へ出て天を見上げ、
「それでは、兵馬様、私はこれから三日の間に、あなた様のお望みだけのお金を調えて――そうですね、ドコへお届けしましょうか、ええと……浅草の観音の五重の塔の下でお目にかかりましょう、時刻は今時分、あの観音様の前までお越し下さいまし、その時に間違いなくお手渡し致します。今夜は雨が降るかも知れません、私はちょっと側道《わきみち》へ外《そ》れるところがございますから、これで失礼を致します」
といって七兵衛は、そのまま風のように姿を闇に隠してしまいました。
 そこで兵馬は、社の木立の深い中をたどって、社務所の方へ帰りながら、
「わかったようでわからぬのはあの七兵衛という人だ、金を持っているのか、持っていないのか、トント判断がつかぬ。どこにか少なからぬ小金《こがね》を貯えていて、表にああして飄々《ひょうひょう》と飛び廻っているのか知ら。いつもと違って今宵は三百両というなかなかの大金である、それを事もなげに引受けて、三日の期限をきったところには信用してよいのか悪いのか、とんと[#「とんと」に傍点]夢のようである。しかし、今まであの人の約束を信じて、ツイ間違ったことがない、それで、ここでも約束通りに信を置いて間違いないだろうか知らん」
と胸に問いつ答えつしていたが、やはり夢のようです。果して易々《やすやす》とその要求するだけの金が手に入ったならば、自分の今の苦痛はたちどころに解放される。解放されるのは自分だけではない、苦界《くがい》に沈む女の身が一人救われる。そうして、金にあかして、愛もなければ恋もない女を買い取ろうとする色好みの老人の手から、本当に愛し合っている人の手に取り戻すことができる。自分の本望、女の喜び、それを想像すると、兵馬はたまらない嬉しさにうっとりとする。
 うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい閨《ねや》の燃えるような夜具の中に、くるくる[#「くるくる」に傍点]と包まれてゆく心持になってゆく時、ヒヤリとして胸を衝《つ》いたものは、
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の一言《ひとこと》がそれです。

         十四

 狭山《さやま》の岡というのは、武蔵野の粂村《くめむら》あたりから起って、西の方、箱根ヶ崎で終る三里ほどの連岡《れんこう》であります。武蔵野の真中に、土の持ち上っただけのもので、その高さ二百歩以上のところはなく、秩父《ちちぶ》から系統を引いているわけではなく、筑波根《つくばね》の根を引いているわけでもなく、いわば武蔵野の逃水《にげみず》同様に、なんの意味もなくむくれ[#「むくれ」に傍点]上って、なんの表現もなく寝ているところに、狭山連岡の面白味があるのです。
 狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天の祠《ほこら》がまつられてある。府中の六所明神の社頭で兵馬と別れた七兵衛が、ひとり、こっそり[#「こっそり」に傍点]とこの弁天の祠に詣でたのは、その翌日の真昼時であります。
 七兵衛は弁天様にちょっと[#「ちょっと」に傍点]御挨拶をしてから、その縁の下を覗《のぞ》き込んで手を入れて探すと、蜘蛛《くも》の巣の中から引き出したのが、一挺の小鍬《こぐわ》であります。この鍬を片手に提げると、池のまわりを一ぺん通り、西の方へまわって、松の大樹の落々《らくらく》たる間へ進んで行きました。この辺、数里にわたって、見渡す限りの武蔵野であります。
 七兵衛は池尻の松の大樹の林の中を鍬を提げて歩いて行き、一幹《ひともと》の木ぶり面白い老樹の下に立って、いきなり鍬を芝生の上へ投げ出すと、その松の根方に腰をおろしました。
 そこで煙草入を取り出して、燧《ひうち》を切って一ぷく吸いつけると、松風の響きが鼓《つづみ》のように頭上に鳴り渡ります。七兵衛は
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