まれるままにいい気になって、附いたり離れたりしているまででございます」
「そうすると貴様は、あの者共のダシ[#「ダシ」に傍点]に使われているだけだな」
「そうでございますとも、ダシ[#「ダシ」に傍点]に使われているだけの罪のねえのでございますから、どうかお手柔らかに願いたいんでございます。いや、あの南条先生ときては、あれでけっこう人が悪いんだからな。さりとて、今度のことはあんまり人をダシ[#「ダシ」に傍点]に使い過ぎらあ」
「うむ、ダシ[#「ダシ」に傍点]に使われていると知ったら、それを出し抜いて、裏を掻《か》いてやる気にはならないか」
「そういう芸当は、大好きなんですがね、何しろ、あちら[#「あちら」に傍点]とこちら[#「こちら」に傍点]とでは役者が違いますからなあ」
といって、がんりき[#「がんりき」に傍点]がポカンと口をあいて見せたのは、かなり人を食った振舞です。山崎はなんと思ったかがんりき[#「がんりき」に傍点]の手を放して、
「よし、それではがんりき[#「がんりき」に傍点]、もし貴様が南条、五十嵐の方で買収されているなら、こっちでもう一割高く買ってやろうではないか。先方の後立てはたかの知れた大名、こっちは二百五十年来、日本を治めて来た八百万石の将軍家のお味方だ。ともかくもこっちへ来い、人目のないところで、もう一応、貴様を吟味してみたり、また貴様の手を借りてみたいと思うこともあるのだ」
といって山崎譲は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の手から小柄を取り戻し、百蔵を促《うなが》して、六所明神の森の方へ歩き出すと、がんりき[#「がんりき」に傍点]もいやいやながら、それに従わないわけにはゆきません。

         十二

 吉原の万字楼の東雲《しののめ》の部屋に、夜明け方、宇津木兵馬はひとり起き直って、蘭燈《らんとう》の下《もと》に、その小指の傷を巻き直しています。
 この傷が、妙にピリピリと痛んで眠られないのです。傷が痛むだけではない、良心が痛むのでしょう。
「起きていらっしゃるの」
 障子を半ば開いて笑顔を見せた女。
「ああ、眠れないから」
 兵馬は正直に答えました。そうすると女は、うちかけ[#「うちかけ」に傍点]を引いて中へ入って来て、
「お怪我をなさったの」
「少しばかり」
「どこですか」
「この小指」
 兵馬は巻きかけた右の手の小指を、女の眼の前に突き出すと、
「まあ」
と女は美しい眉根《まゆね》を寄せて、
「痛みますか、どうしてこんな怪我をなさいました」
「この間あるところで」
「お転びになったのですか」
「いいえ」
「それでは戸の間へ、はさまれたのでしょう、あれはあぶないものです」
「そうでもありません」
「巻いて上げましょう」
 女――この兵馬の馴染《なじみ》になっている万字楼の東雲は、兵馬の手から繃帯の一端を受取って、軟らかな手で結びはじめました。
「宇津木さん」
 手際よく繃帯を巻きながら女は、やさしく問いかけますと、
「何です」
「あなたは、隠していらっしゃいますね」
「何を」
「何をとおっしゃって、あなた、このお怪我は、ただのお怪我ではありません」
「ただの怪我でないとは?」
「よく存じておりますよ、あなた様のお連れの方々のお噂《うわさ》では、あなたはお若いけれども、たいそう武芸がお出来なさるそうではございませんか」
「なにも、出来はしないよ」
「いいえ、お出来になることはよくわかっています、そのあなた様が、たとい、これだけにしても、手傷をお負いになるのは、よくよくのことでございます」
「そういうわけではないのだ」
「ほほ、そういうわけとおっしゃっても、まだそのわけを言わないじゃありませんか、あたし、最初から、あなた様の御様子のおかしいことを、ちゃんと見ておりました」
「ふむ」
「あなたは斬合いをなすっておいでになったのでしょう、あなたほどの方ですから、きっと先の人を斬っておしまいになって、その時に受けた手傷がこれなんでしょう、わたしはそう思います」
「そうではない、ちょっとした怪我だ」
 兵馬は極めて怪しい打消しをすると、女はこの怪我をした指先を、ちょっと握って、
「にくらしい」
「ああ痛ッ」
 兵馬はほんとうに痛かったのです。
「弱い人ですね、そんなことでは仇《かたき》は討てませんよ」
 東雲はあやなすようにいったのを、兵馬はかえって意味深く聞いて、
「全く……」
 東雲はしげしげと兵馬の面《おもて》を見直しました。この女は兵馬が仇を持つ身であることを、まだ知らないのです。
「それでは隠さずにいってしまおう、いかにもこの傷は人から受けた傷なのだ、しかし、斬合いをして斬られた傷ではない、人から打たれた傷なのだ……傷は僅かながら、残念でたまらないのは、受けなくともよい傷を、無理に受けたようにな
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