る鍛練の未熟が恥かしいのじゃ」
兵馬は心から残念がって、その時のことを眼に見るように思います。
尺八を持って月下にさまようていた人。それを普通の虚無僧《こむそう》だと思って、その右を通り抜けようとした時に、その虚無僧が尺八を振り上げて、風を切って打ちこんで来たのを、かわすにはかわしたが、充分にかわしきれないで、この指先を砕かれた。その不鍛練が今になっても恥かしい。相手の虚無僧の只者でないことが思われてならぬ。それ故に、この傷が一層痛んで寝られない。それともう一つ……兵馬は改めて女に向い、いとまじめに、
「今日は暇乞いのつもりで来ました。それについて、そなたへ打明けてのお願いがある、とりあえずここへ僅かながら金子《きんす》を持参致した、拙者《わし》の帰るまで、五日か長くて十日の間、これをそなたに預っておいてもらいたい、それと共に、その間はそなたの身に変りのないように、そなたはこの万字楼を動かないように起請《きしょう》をしてもらいたいのだ」
といって兵馬は、蒲団《ふとん》の下に置いた一包の金子を取り出して、東雲の前に置きました。
「まあ、足もとから鳥の立つように。旅にお出かけなさるのですか……そうしてこのお金を、わたしに預かれとおっしゃるのは?」
「かねがね話してもおきました通り」
兵馬は思い切って語り出でようとする時、廊下に人の歩む音があって、
「東雲さん、東雲さん」
「はい」
その声を聞くと女が、そわそわと立ち上り、
「少しの間、待っていて下さい」
にっこり[#「にっこり」に傍点]と愛嬌を見せて行ってしまいました。
その翌日、結束して江戸を離れて、例の甲州街道の真中に立った宇津木兵馬。
今夜こそは、と思い切って出かけてみたが、宵《よい》のうちは人に妨げられ、ようやく打解けて物語りにかかろうとする時、また人に呼ばれて女は行ってしまった。そのまま、ついに思いを遂げずして楼を出たのは昨夜のこと。
それがいかにも残り惜しいのである。とはいえ、もう自分があの女を人手に渡したくないという心は、よく通じているはずである。さればこそ女の手許に預けた一包の金、事情は語り残したけれども、それが何を意味しての金だか、女が充分に推量している、と兵馬は、それを自ら慰めつつ、歩くともなく歩いているのです。
その時、女に預けた金。どうして彼は今の浪々の少年の身でそれを得たか。それはまさしく南条力の手から出でたもの。
南条力は、絶えず自分の仕事の邪魔者である山崎譲を亡きものにしたいと思っている。南条の心持では、あえて山崎一人を敵とするのではないけれど、この男あるがために、ややもすれば大事の裏をかかれようとする。それが苦手で、ついに宇津木兵馬を唆《そその》かした。
兵馬とても、理由なしに唆かされて、それに応ずるほどの愚か者でなし、ことに山崎は京都にいた時分には、同じ壬生《みぶ》の新撰組で、同じ釜の飯を食った人である。唆かされて討つ気になるほど兵馬もうつけ[#「うつけ」に傍点]者ではないはずなのに、ついにそれを引受けてしまったのは、誰のためでもない女のためです。知らず識らず陥《はま》り込んだ女が、他《あだ》し人の手に身受けされようとする噂を聞き込んで、矢も楯もたまらずに、彼は南条の勧誘に従いました。そうして彼は、四谷の大木戸に待受けて山崎を斬ったのです……ところがそれは当の相手ではなくて、名もない、罪もない、飛脚の男であった。兵馬は慚愧《ざんき》と煩悶《はんもん》とを重ねて、もはや南条に合わす面《かお》はないと思い込んでいたのに、南条の方は案外|磊落《らいらく》で、兵馬に力をつけて、もう一遍やれという。山崎はいま甲州街道を上っている。多分駒木野の関以東のいずれかで彼の姿を見出すに違いない、といって兵馬に一封の金を与えた。昨夜吉原へ携えて来たのはその金です。ここ数日の間に山崎を斬ってしまえば、かの女を自由の身にするだけの融通は、南条の手で保障がついていると見てよい。
兵馬はこうして、山崎譲を斬りに行く。彼を斬ることは必ずしも難事とは思っていないが、彼を斬るの理由を見出すことに苦しんでいるのです。意義のない仕事には必ず苦悶がある。いかに有利な条件も、その苦悶を救うに足らないことに悩まされている。
頭を挙げて見ると、秋の武蔵野には大気が爽やかに流れて、遥かに秩父の連山。その山々を数えて見ると、武州の御岳山《みたけさん》。
そこで流した兄の血潮はまだ乾いてはいないのに、その恨みは決して消えてはいないのに、それを差措《さしお》いて、自分は今、意趣も恨みもない人を斬ろうとして行くのだ。兵馬は浅ましく思って、われと自分の胸を強く打ちました。
宇津木兵馬は、まだ日脚《ひあし》のあるのに府中の町へ入ると、そのまま六所明神の神主|猿渡氏《さるわたりし
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