点]は、もう起き上って火を焚きつけていました。
 そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]はなにげなく、
「お爺《とっ》さん、騒ぎというのは何だったね」
「乱暴な奴もあればあるもので、あるお大名の殿様のお妾《めかけ》を盗み出して逃げた奴があるんだそうですよ」
「え……」
「お江戸から、その殿様のお妾を盗んで来て、なんでも、たしかにこの府中のうちに泊ったにちがいないと睨《にら》まれたんだそうでがす」
「ナニ、何だって」
「それをお前さん、あとから追いかけてきたもんでがす、何しろ、殿様の御威勢ですからね、二十人ばかりのお侍が馬を飛ばせて江戸から、これへ追いかけて来たんだそうで……」
「ま、待ってくれ。してみると昨晩の家《や》さがしというのは、泥棒や火つけというようなものじゃあなかったんだね」
「どういたして、殿様のお妾なんです、お大名のお部屋様を連れ出した奴があったんだそうでがすから」
「そいつはなかなか大事《おおごと》だった……」
「大事にもなんにも、浄瑠璃や祭文《さいもん》で聞くお半と長右衛門が逃げ出したのなんぞより事が大きいでがすから、町の役人たちも騒ぎました」
「やれやれ」
 ここまで聞いてみると、どうやら、がんりき[#「がんりき」に傍点]の胸が穏かでなくなりました。大名のお部屋様を嗾《そその》かして来たという、だいそれた色師の腕が憎いと、そういうところに妙な反抗心を持つこの男は、その憎い仇《かたき》の面《かお》を見てやりたくなる心持で、
「そうして、お爺《とっ》さん、その色敵《いろがたき》は首尾よくつかまったのかえ」
「ところが、つかまらねえんでがす、たしかにこの府中の町へ入ったはずなのが、どこをどうして逃げたか、いっこう行方《ゆくえ》がわからなくなってしまいましたんで」
「おやおや」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]としては、首尾よく逃げ了《おお》せたその果報者をますます憎い者に思って、また一面には、さがしに来たやつらの腑甲斐《ふがい》なさを、腹のうちで嘲《あざけ》っていたが、なんだか腹の中が無性《むしょう》に穏かでない。
「それで何かえ、そのお妾を盗まれたという殿様はいったい、どこの何という殿様だか、それを聞いて来なすったか」
「それが、その酒井様の……」
「ナニ、酒井様?」
「ええ、出羽の庄内の酒井様」
「何だって」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が飛び上ったのは、よくよく胸にこたえるものがあったと見えます。
「ええ、出羽の庄内で十四万石、酒井左衛門尉様のお手がついたお部屋様を、悪者が盗み出して、そうして、この甲州街道を逃げたということですよ」
「やい、ばかにするな、そのことならおれが知ってるんだ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は眼の色を変えて飛び出そうとするから、渡し守のおやじが呆気《あっけ》にとられて、
「親方、お前さん、それを知っておいでなさる?」
「知ってるとも。知らなけりゃ、どうしてこんなことが聞いていられると思う、ばかばかしいにも程があったもんだ、昨夜《ゆうべ》もそれを考えて、ひとりで思出し笑いをしていた奴はどこにいる、先手を打たれて眼の前で騒がれながら、いい心持でどぶろく[#「どぶろく」に傍点]を飲んでいりゃあ天下は泰平だ、面《つら》を洗って出直さなけりゃあ、とても明るい日の下を歩けるわけのものじゃねえ」
 こういって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は道中差をつき差すと共に、小屋の外へ飛び出して、いきなり多摩川の流れで、ゴシゴシと自分の面《かお》を洗いはじめました。

         十一

 やや暫くあって、村山街道の方面から、八幡太郎の欅並木《けやきなみき》を、なにくわぬ面をして、府中の町へ入り込もうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を見ることができます。
 多摩川べりから大廻りに廻って、宵に逃げ出したあぶないところへ、再び足を踏み入れようとするこの男の心の中は、渡し守から聞かされた昨夜の事件の内容で、自分ながら呆気に取られると共に、むらむらと例によっての功名心に油が乗り、わざわざこうして取って返したもので、取って返した以上は、必ずしるし[#「しるし」に傍点]を挙げて、我ながら気の利いて間の抜けた昨夜のしくじり[#「しくじり」に傍点]を取り返そうという自信のほどが、鼻の先にうごめいている。
「いけねえ、草鞋《わらじ》が切れちゃった、幸先《さいさき》がよくねえや、ちぇッ」
 八幡太郎の欅並木のとっつきで、草鞋のち[#「ち」に傍点]の切れたのを舌打ちして忌々《いまいま》しがったが、まだ夜明け時分ではあり、近いところに店もなし、当惑して見廻すと、馬頭観音のささやかなお堂の前につるしてあるのが奉納の草鞋です。
「これ、これ、これを御無心申すことだ」
といって百蔵は、堂の前へや
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