」に傍点]は尋ねられて、はじめて当惑しました。実は、脱出ぶりの迅《はや》いのを鼻にかけて、ここへ避難して来てはみたものの、何者に追われて来たかと聞かれると手持無沙汰です。家探しの声は聞いたが、何の理由で、何者の手で家探しが行われるのだか、それを聞き洩らしたのは重大な手落ちだ。我ながら気が利いて間が抜けていると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はいささか悄気《しょげ》ていると親爺は、もう提灯をさげて、
「それじゃ親分済みませんが、今夜はひとつここに泊っていておくんなさいまし、わしはこれから宿《しゅく》まで様子を見に行って来ますから」
おやじはがんりき[#「がんりき」に傍点]に留守の小屋を託して、渡し守の小屋を出て行ってしまいました。
日野の渡しの渡し守の小屋は、江戸名所|図会《ずえ》にある通りの天地根元造りです。この天地根元造りへひとり納まったがんりき[#「がんりき」に傍点]は、結句これをいい都合に心得て、焚火の前にはだかり[#「はだかり」に傍点]ながら思わず見上げると、鼻のさきに弁慶が吊り下げてあります。
その弁慶には焼いて串にさした鮎《あゆ》、鮠《はや》、鰻《うなぎ》の類が累々とさしこんである。がんりき[#「がんりき」に傍点]は手を伸ばして鮎を一串抜き取って、少しばかり火にかざして炙《あぶ》ってみると、濁りでもいいから一杯飲みたくなりました。
酒はおやじの蓄えを知っている。自在につるした鉄瓶も燗《かん》のしごろに沸いている。左の手を上手にあしらって少しばかり働いて、それから、さいぜん親爺が寝ていた空俵の畳へみこしを据《す》えてしまって、燗の出来るのを待っているうちに、何か思い出して、
「南条先生も、ずいぶん人が悪いや」
とつぶやいてニヤリと笑う。
それから手酌《てじゃく》で、一ぱい二はいと重ねているうちに、いい心持になって、そのまま、うとうとといど[#「いど」に傍点]寝《ね》をはじめてしまいました。いつか知らないうちに、おやじの寝床にもぐり込んで一夜を明してしまったが、夜中におやじの帰った様子もなし、焚火にくべてあった松の切株が頻《しき》りに煙を立てて、剣菱《けんびし》の天井から白々と夜の明け初めたのがわかります。
何かしら、昨夜、この男、相当のいい夢でも見たものか、寝起きの機嫌がそれほど悪くはなく、
「南条先生も人が悪いが、がんりき[#「がんりき」に傍点]をがんりき[#「がんりき」に傍点]と見込んで、けしかけるなんぞは隅には置けねえ」
しきりに南条なにがしが口頭に上ってくるのは、その以前、相模野街道で南条なにがしから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がこういって唆《そその》かされたことがある、「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう。ほかでもないが、相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ、今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとって、その酒井が苦手《にがて》であることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を絶ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで、酒井を焦《じ》らそうとしている、その辺の魂胆《こんたん》はまだ貴様にはわかるまい、わかってもらう必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒井左衛門尉の御寵愛《ごちょうあい》を蒙《こうむ》った尤物《ゆうぶつ》が、いま宿下りをして遊んでいることだ、それは佐内町の伊豆甚《いずじん》という質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち、殿に思われて、お手がついて、お部屋様に出世をして、当時はある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ、その名はお柳という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」――こういって猫の前へ鰹節を出したのが、今いう、その南条先生なるものの言い草である。この南条という男、ある時は慨世の国士のように見え、ある時はてんで桁《けた》に合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のようにいってのける。勧めるのに事を欠いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]者にこんなことを勧めるのは、油紙へ火をつけるようなもので、ただでさえも、そういうことをやりたくて、やりたくて、むずむずしている男に向って、こういって筋を引いたから堪ったものではない。「先生、がんりき[#「がんりき」に傍点]を見込んで、そうおっしゃって下さるのは有難え」――手を額にして恐悦《きょうえつ》したのはつい先頃のことです。今や、その仕事にとりかかろうとして、しきりに思出し笑いをしているところへ、夜前の渡し守が帰って来ました。
「親方、お留守を有難うございました、いやはや、昨晩は話より大騒ぎでしたよ」
その時がんりき[#「がんりき」に傍
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