八つ……」
 弁信はしきりに数を読んでいる。茂太郎はそれを不審がっているうちに、
「十……十一……十二……十三……十四……十五……!」
で終りました。
「ああ、これですっかり腑《ふ》に落ちた。茂ちゃん、馬の数は十五だよ、つまり十五人の人が、馬の轡を並べて東の方からやって来たんですよ。夜中に十五人も馬を並べて通るのが只事ではないと思って考えてみたが、江戸の侍たちが月見の遠乗りに、この分倍河原をさして来たものでしょう。今夜はいざよい[#「いざよい」に傍点]ですからね」
 ところがこの十五騎の蹄の音がやむと暫くたって、府中の町がひっくり返るような騒ぎになりました。喧々囂々《けんけんごうごう》と罵《ののし》る声が地に満つるの有様です。
 一年一度行われる関東名物の提灯祭りの夜以外には、絶えてないほどの騒ぎが持ち上ったのは、まさしくいま乗込んだ十五騎が持ち込んだものに違いありますまい。事の体《てい》をよく見ると、どうやら全町を挙げて家探《やさが》しが行われているようです。
 騒ぎ、驚き、怖れ、憂えている人々の罵る声を聞いてみるとこうです。世にはだいそれた奴があればあるもので、江戸のあるお大名の奥方を盗み出して、たしかにこの町あたりまで入り込んだ形跡があるようで、江戸の市中の取締が轡を並べて追いかけて来たということです。いや、それは奥方ではない、お部屋様だという者もありました。ともかくも諸侯の秘蔵の寵者《おもいもの》を盗み出して、連れて逃げるということであってみれば容易ならぬことです。
 その探索の手にかかった町民の迷惑というものもまた容易なものではありません。泊り合せた旅人どもの迷惑というものも容易なものではありません。まして婦人の驚愕《きょうがく》と狼狽《ろうばい》は見るも気の毒な有様。
 遥《はる》かに離れているとは言いながら、常の人よりは三倍も五倍も勘《かん》の鋭い弁信が、その騒ぎを聞きつけないはずはありません。
「茂ちゃん」
「何だい」
「府中の町は今、上を下への大騒ぎをやっているね」
「そうか知ら」
「何か大変が出来たのに違いない」
「何だろう」
 二人もまた安き心がなく、自分たちの追われた府中の町をながめて、茂太郎は立ったまま、弁信は坐ったままで、伸び上っているけれど、その騒ぎの要領を得るには少し離れ過ぎています。
「いけない、お月様まで隠れてしまった、さっきまで霽《は》れていた空が、すっかり薄曇りに曇ってしまったよ、弁信さん、雨が降りそうになってしまったよ」
「琵琶は止めにしよう、ね、茂ちゃん、こんな日に無理をすると悪いから」
 さすがの弁信法師も、再三の故障に気を腐らして、琵琶を弾くのを断念したようです。茂太郎もまたそれが穏かだと思いました。弁信はせっかく琵琶を弾くことを断念して、静かにそれを袋に納めました。

         十

 府中の宿のこの大騒ぎの避難者の一人に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵があります。こういう場合において、この男は避難ぶりにおいても、抜け駆けにおいても、決して人後に落つるものではない。手が入ったと聞いて、自分が泊っていた中屋の二階から、屋根づたいに姿をくらましたのは、例によって素迅《すばや》いもので、もちろん、あとに煙管《きせる》一本でも、足のつくようなものを残して置くブマな真似はしないで、スワと立って、スワと消えてしまった鮮かな脱出ぶりは、手に入《い》ったものです。
 そうして、まもなくすました面《かお》を、日野の渡し守の小屋の中へ突き出して、
「お爺《とっ》さん」
「はい、はい」
 道中師で通っているがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、ここの渡し守のおやじとも疾《と》うからなじみ[#「なじみ」に傍点]で、言葉をかければ、響くほどの仲になっているのです。
 渡し守の小屋の中へ身を納めて、土間に燃えた焚火の前へ腰をかけ、おもむろに腰の煙草入を抜き取った時分に、程遠からぬ街道の騒動が、渡し守のおやじ[#「おやじ」に傍点]の耳に入って来たものです。
「何だい、ありゃ、えらく騒がしいじゃねえかな」
 寝ていたおやじが起き直ると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、さあらぬ面《かお》をして、
「お爺《とっ》さん、気をつけな、府中の宿は今、上を下への大騒ぎだぜ」
「え、府中の宿が上を下への大騒ぎだってな? なるほど、馬で人が駆けるわな、夜中に馬で飛ばす騒ぎは只事ではござるめえ」
 おやじは、むっくりと起きて心配そうです。倅《せがれ》の家は府中の町はずれにあって、幾人《いくたり》かの孫もあるはず。
「只事じゃねえ、府中の町をひっくるめて、一軒別に家さがしが始まってるんだぜ」
「へえ、一軒別に家さがし……なんです、泥棒ですか、駆落《かけおち》ですか」
「さあ……」
 がんりき[#「がんりき
前へ 次へ
全85ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング