原へ来て見ると、多摩川の流れが月を砕いて流れています。広い河原には、ほとんどいっぱいに月見草の花が咲いています。遠く水上《みなかみ》には、秩父や甲州の山が朧《おぼ》ろに見えるし、対岸の高くもない山や林も、墨絵のようにぼかされています。
「ここが分倍河原というんだろう」
蓆《むしろ》を巻いて来た茂太郎は、月見草の中に立って、さてどこへ席を設けたものかと迷うています。
「ああ、ここが分倍河原で、古戦場のあとなんだよ」
弁信法師はこう言いましたけれども、その古戦場の来歴を説明するまでには至りません。いかに耳学問の早い物識りのお喋り坊主でも、行く先、行く先の名所古蹟を、いちいち明細に説明して聞かせるほどの知識は持っていないのがあたりまえです。
しかし、二人の立っているところは、いわゆる、分倍河原の古戦場の真中に違いないので、そこは昔、軍配河原《ぐんばいがわら》ととなえられたところであります。しかも、茂太郎が席を設けようかと思案しているあたりの小さな二つの塚は、俚俗に首塚、胴塚ととなえられる二つの塚であります。治承《じしょう》四年の十月には、このあたりへ、源頼朝が召集した関八州の兵《つわもの》が轡《くつわ》を並べて集まりました。新田義貞《にったよしさだ》が鎌倉勢に夜うちをかけたのもここであります。頼朝がここに集めた関八州の兵は、総勢二十八万騎ということだから、かなりの人数でありましたろう。義貞が北条勢を相手にした時は、太平記によると、
[#ここから1字下げ]
「義貞追ひすがうて、十万余騎を三手に分けて三方より同じく鬨《とき》を作る、入道|恵性《えしよう》驚きて周章《あわ》て騒ぐ処へ、三浦兵六力を得て、江戸、豊島《としま》、葛西《かさい》、川越、坂東《ばんどう》の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手《くもで》、輪違《わちがひ》、十文字に攻めたりける、四郎左近太夫|大勢《たいぜい》なりと雖も、一時に破られて散々《ちりぢり》に、鎌倉をさして引退《ひきしりぞ》く」
[#ここで字下げ終わり]
茂太郎は程よきところへ蓆を敷きました。弁信はその上へ乗って、後生大事《ごしょうだいじ》に抱えて来た琵琶を、そっとさしおいてから、きちんと座を構えると、つづいて茂太郎が前と同じように介添役《かいぞえやく》気取りで、少し前へ避けて坐り、さて、弁信は再びおもむろに琵琶の調子をしらべにかかると、
「茂ちゃん」
「何だエ」
「淋しいねえ」
「ああ」
「何か、音が聞えるよ」
「何の音が」
「轡《くつわ》の音が聞えるよ」
茂太郎は何の音も聞くことがないのに、弁信は聞き耳を立てて、撥《ばち》を取り直そうとしません。
「轡の音が聞えるよ」
「どっちの方から聞えるの」
「東の方から」
「嘘だろう、東の方からじゃない、土の下から聞えるんだろう」
「いいえ、東の方から、此方《こっち》へ向いて轡の音が聞えるのよ」
「弁信さん、そりゃお前の気のせいだろう、ここは昔の古戦場だというから、昔、戦《いくさ》をして死んだ軍人《いくさにん》の魂が、この河原の下に埋まっているんだろう、その軍人や、馬の魂が、お前の耳に聞えるのに違いない」
「なるほど、そう言われてみると……この川の下流にあたって、新田義興《にったよしおき》という大将が殺された矢口ノ渡しでは、どうかすると馬の蹄《ひづめ》の足音が不意に聞えて、竜頭《りゅうず》の甲《かぶと》をかぶった大将の姿が現われるということを聞きました。茂ちゃんの言う通り、いま聞えるあの轡《くつわ》の音も、昔ここで死んだ軍人の怨霊《おんりょう》の仕業《しわざ》かも知れない、それが土の下から響いて来るのを、あたしの空耳《そらみみ》で東の方に聞えるのかも知れない」
弁信はこう言いました。自分の耳を疑ったことのない弁信が、かえって荒誕《こうたん》な怨霊説に耳を傾けるのが迷いでしょう。
「そうだろう、でも、お前に聞えるものなら、あたいにも聞えそうなものだねえ」
「お待ちよ……何か、わたしは気になってならない」
弁信は見えぬ眼に四辺《あたり》を見廻そうとしたが、四辺を見廻したところで、前に言う通り、ややもすれば弁信の身の丈よりも高い月見草が、頭を出している分倍河原に過ぎません。
「弁信さん、あたいが悪かった、たしかに聞えるよ、たしかに、あたいの耳にも馬の足音が聞えて来たよ」
その時坐っていた茂太郎が、席を立ち上りました。
子供とはいえ……、立ってみれば月見草よりも背が高い。立って、そうして茂太郎が前後と左右と、遠近と高低とを見廻したけれど、月の夜の河原に見咎《みとが》め得べきなにものもありません。
「ええと……一つ……二つ……三つ……四つ……」
弁信は坐ったままで、小声で物の数を読みはじめました。
「何を言っているの、弁信さん」
「五つ……六つ……七つ……
前へ
次へ
全85ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング