めにかかりました。
子供が泣きやんで笑顔をつくると、呪わしかったお松の気色《きしょく》も、忘れたように笑顔になりました。
それから二人は、一別以来のことを何かと打語らい、現在の生活ぶりをおたがいに話し合った中に、与八の生活もこのごろはすこぶる多忙で、ことに感心なことは日頃心がけて、附近の山々のあきちへ杉苗を植えたのが、早や三千本になるという話。水車も二三本|杵《きね》を増して、人を雇うて働いてもらっているという話。その他、何かと近処から相談を持ち込まれて、世話をしてやっているという話。
お松もまた、兵馬の身の上のことは口に出さず、自分としてはこのごろの生活は安定もあり、人の贔屓《ひいき》も受けているし、自分も働き甲斐があることを物語りました。
その晩はこの屋敷へ泊って、翌朝ここを立って武州の沢井へ帰ろうとする与八に、よい道づれが出来ました。
恵林寺の慢心和尚も、同じところを出でて甲州へ帰ろうとするところ。
和尚は錫杖《しゃくじょう》をついて、笠をかぶり、袈裟衣《けさごろも》に草鞋《わらじ》を穿《は》こうとして式台に腰をかけているところを、郁太郎を背負っている与八が、跪《ひざまず》いて恭《うやうや》しくその草鞋の紐を結んでやりますと、
「うん」
といって、自分の手を休めた慢心和尚が、傲慢な態度で与八に紐を結ばせておりましたが、与八が丁寧に結び終って後、和尚の背後には、数多《あまた》の豪傑連が送りに出ているのに、和尚は容易に動こうともしないで、与八の姿をじっとながめていたが、
「ああ」
と感嘆の声を洩らし、そのまま与八の手を取ると、自分の腰をかけていたところへ腰をかけさせて、自分はその前へ土下座をきり、三たび与八に向って礼拝《らいはい》して出かけましたから、見送るほどの者共が、和尚気がちがったのではないかと怪しみました。
やがてこの道づれは滞りなく江戸の朱引内《しゅびきうち》を出てしまって、例によっての甲州街道を歩み行くうちに、どちらが先ということもなく、二人が話をはじめる。
慢心和尚の、与八に対する態度というものは、打って変った親切を極めたもので、その話しぶりなども、噛んで含めるほどに優しいものになっていることが不思議です。
与八から尋ねられて、和尚は欣《よろこ》んで、慧能大師《えのうだいし》の石臼の物語をはじめ、
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「慧能ガ厳父ノ本貫ハ范陽《はんよう》ナリ。左降《さこう》シテ嶺南ニ流レテ新州ノ百姓トナル。コノ身不幸ニシテ父又早ク亡《もう》ス。老母|孤《ひと》リ遺《のこ》ル。南海ニ移リ来ル。艱辛貧乏。市《まち》ニ於テ柴ヲ売ル」
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といって、貧乏のあまり、薪を売って母を養っていたことから、ふとお客様が金剛経を誦《じゅ》するを聞いて開悟し、黄梅の五祖|弘忍大師《こうにんだいし》のところへ行って米を舂《つ》いて允可《いんか》を受け、ついに達磨大師以来六代の伝衣《でんえ》を受けて、法流を天下に布《し》いたこと、その米舂《こめつ》きの因縁と石臼のことなどを細かに物語って聞かせたのみならず、本来は本街道を通って帰らるべきものを、与八のためにわざわざ裏街道へ廻って、多摩川の岸を沢井まで、送らるべき人が送る身になって、とうとう与八の水車小屋へ一晩泊り込みました。
それのみならず、その翌日は、この水車の仕事が面白いといって、和尚は法衣《ころも》の袖を高くからげて、米搗《こめつ》きから、粉挽《こなひ》きから、俵の出し入れから、水門の上げ下ろしから、穀物の干場の仕事まで、与八を助けて、せっせと稼いで、その稼ぎぶりの確かなことに本職の与八を驚かせ、夕方になると、さっさと出発してしまいました。
慢心和尚が裏街道を甲州へ入った時分、宇津木兵馬は上野原の月見寺を出て行方不明になりました。行方不明というのは、西の方、恵林寺へ再び戻る気配もなく、東の方、江戸の地へ足を踏み入れた様子もなく、あれから横へ外《そ》れて、つまり甲武信三州の山々の群がる方面へと入り込んでしまったのです。しかし、それも一人ではありません。寺に逗留《とうりゅう》しているうちに遊びに来た猟人《かりうど》の案内で、三日分ほどの食糧を携帯したままで、山を分けて入り込んでしまったのです。
それからまた一方、寺の娘のお雪が机竜之助と共に、案内知った久助を先に立てて、信州の白骨の温泉へと志したのは間もないことでありました。白骨の温泉はよく人を活かすべく、また人を殺すべしと言った弁信法師は、あれ以来、留立てをせず、この一行の駕籠《かご》の出立する時も、見えない眼で見送りをし、無事を祈って、自分は少なくともその帰るまで、この寺に留《とど》まることを約束しました。弁信が留まれば、おのずから清澄の茂太郎も留まります。
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