にも拘らず、それをグングン土俵の方へ押して行こうとするから、郁太郎がわっと泣きました。
「子供が泣くから御免なさいまし」
「意気地なしめ」
「与八さん、与八さん」
 そこへお松の声。
「与八さんはいませんか」
「はい、ここにいますよ」
 与八は助け舟にすがる心持で返事をすると、乳呑児《ちのみご》を抱いて廊下を駈け出して来たお松が、
「与八さん、こっちへおいでなさい、相撲はあとで、ゆっくり見せておもらいなさいましな」
「ああ、そう致しましょう」
「皆さん、この方はわたくしのお客様ですから、わたくしの方の御用が済まないうちは皆さんに貸して上げません」
「これはこれは」
 力士連は頭をかかえて恐縮する。この場へ出て来たお松は、勇士豪傑をたしなめ[#「たしなめ」に傍点]るように、
「なに、あなた方、与八さんにかなうものですか」
「お松どのに叱られてはかなわない」
 取的連が頭をかかえて恐縮がることほど、お松はこの屋敷で御老女様のお気に入りで、幅利きになっていました。

 ここに奇妙な二組の子持が坐っている。
 与八はその大きな膝の上に郁太郎を据え、お松は後生大事に嬰児《みどりご》を抱いて、
「与八さん、それはよい功徳《くどく》をなさいましたね、大菩薩峠の上へ御地蔵様をお立てなさいまして」
「ああ、功徳というほどのことでもありませんが……どうです、お松さん、もう一ぺんあの峠へ登ってみる気はありませんかね。行ってみる気があるなら、わしがとこから馬に乗せて行って上げまさあ」
「ぜひつれて行って下さい。そうして与八さんの立てたお地蔵様を拝んで、お爺さんの供養をして上げたら、どんなにお爺さんが喜ぶか知れません……御老女様にお暇をいただいてみますから」
「もう追々寒くなりますからね、寒くなると雪が積って行けませんから、来春《らいはる》になって、あのお地蔵様の供養をしたいと思っているところですから、お松さん、その時においでなさいな」
「あ、そうしましょう、来春ならばね。そうしてその時に、与八さんのお地蔵様へ、わたしも何か御奉納をして上げたいと思います」
「それは、いい心がけです」
「何がよいでしょう」
「そうだねえ……ああ、お地蔵様の前へお燈籠《とうろう》を一つ上げていただきましょう」
「結構ですね。では、わたし、きっと金《かね》のお燈籠を一つ御奉納しますから」
「その前に、わしは、一度あの峠へ登って、お堂の屋根を葺《ふ》いて来ますから」
「それはなかなかお骨折りですね、ずいぶん費用もかかることでしょう」
「なあに、それでも、ぽつぽつ寄進についてくれる人がありますでね……わしが一人で、こつこつと木を運んだり、石を運んだりして、どうやらお堂の形が仕上りました」
「まあ、できないことですね。ですけれどもね、与八さん、一人で行くのはおよしなさい、あんなこわいところへ」
「なあに、別段こわいことはありゃしませんよ」
「いいえ、あんなおそろしいところはありません、思い出しても怖《こわ》いところ。わたしのお爺さんは何だって、本街道を通らないで、わざわざあんなおそろしい道を通ったのでしょう。わたしはあの時のことを思い出すと、くやしくってくやしくって。あの峠を通りさえしなければ、お爺さんもあんな目にあわず、わたしもこれほど苦労はしないで済むものを、恨みなのはあの峠です。菩薩なんて誰が名をつけたんでしょう、悪魔峠か、夜叉峠《やしゃとうげ》でたくさんですわ。おそろしい峠、にくらしい峠、いやな峠」
「峠が悪いんじゃないでしょう、人間が悪いんでしょう」
「ああ、人間が悪い。あの悪い奴はまだ生きてるんでしょうか。何の罪も恨みもない、わたしのお爺さんを、あの峠の上で斬ってしまった悪い奴は、机竜之助というんですってね……ほんとうに悪い奴、兵馬さんの兄さんを殺したのもあいつの仕業《しわざ》ですってね。あんな奴ですから、まだほかにどのくらい人を殺しているかわかりゃしません。何だって神仏はあんな人間を、この世に生かしておくんでしょう。それから、気の知れないのは兵馬さんの姉さん。どうしてあんな悪い奴を好いて、兵馬さんの兄さんのようなよい人を棄てたんでしょう、ほんとにあれこそ魔がさしたんですね」
 お松は、このことになると、我を忘れて、口を極めて、悲憤がほとばしり、そうしてところと人とを呪うのが日頃とは別人のようで、
「ほんとうに大菩薩峠は、悪魔峠です」
 その時、何に驚いたか、与八の膝に抱かれていた郁太郎が、けたたま[#「けたたま」に傍点]しい声で泣き出しました。その泣き声に誘われてか、お松の抱えていたみどり[#「みどり」に傍点]児も、悲しい声で泣き出しました。

         三十八

 二人の子供が申し合わせたように泣き出したものですから、二人の守《もり》は、あわててそれをなだ
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