を進めて、
「養うて教えざるは父のあやまち、教えて厳ならざるは師のおこたり、とそれ実語教にもある通り、人の親となり師となるものの任は重い……」
ここまでは至極|尤《もっと》もであったが、これからがいけない。
「しかるに今時の馬鹿野郎は……」
と来たから、男子の席が、そら始まったと面《かお》を見合わせる。
「師匠も弟子もみんな粗製濫造のガラクタばかりじゃ、ぴゅうと膨《ふく》れ上って忽《たちま》ちペチャンコ……それというのが出来が嘘だから、師匠が本物でないから、力がないから見識が立たぬ、見識がないから景気とゴマカシで世を渡ろうとする、他を誹謗《ひぼう》することを知って、己《おの》れの徳を養うことを知らぬ」
「そこだ!」
この時、またも聴衆の中から頓狂声を振り上げたのは、例の道庵先生であります。舟を漕いでいたはずの先生が、突然奇声を張り上げたから、またも一座を動揺させました。
「先生、静かに――」
その時、道庵先生はもう舟を漕いではおりませんでした。トロリとした酔眼だか寝惚眼《ねぼけまなこ》だか知らないのを※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、両の肩を怒らせ、掌を膝に置きながら、首をのべて慢心和尚の面をまともに見つめ、
「そこだ! 今時の馬鹿野郎は物になっていねえ、それというのは教育が悪いからだ、教育の根本を改良するのが現代の急務だ」
道庵先生は途中から慢心和尚の言葉を聞きかじって、ヒドク共鳴してしまったものと見え、しきりに昂奮し出したのを、寄ってたかってなだめると、まもなく納まって、またコクリコクリと舟を漕ぎはじめました。
道庵先生の合《あい》の手を、慢心和尚はその度毎に嬉しそうに、細い目をあいてながめていましたが、この時も至極上機嫌で、
「オホホホホホ、全くあの先生のおっしゃる通り、教育というものが先に立つのでござるから、ことに子を持つ御婦人方には、教育に心していただきたい。ところが、教育の根本ということは、慢心を戒めるということでござる。慢心があっては、すべてのことが行詰まるばかりじゃ。足らぬ、至らぬという謙遜《けんそん》な心があってこそ物事が上達する、上達の道は無限であるによって、謙遜の心も無限でなければならぬ」
慢心和尚の説教は、慢心を否定するという至極常識的な結論で終りを告げました。
三十七
説教が済んでこの一座が崩れて、おのおの行きたい方へ散って行くうちに、浪土豪傑連は、裸になって庭の一隅に築いてある土俵の周囲に集まって、早くも相撲《すもう》の勝負をはじめました。
今日はこれから、本式の関取《せきとり》が来て、稽古をつけるのだということ。
ちょうど、説教の席から、郁太郎を抱いてこの場へ通りかかったのが与八の災難といえば災難で、そのかっぷく[#「かっぷく」に傍点]が、この素人相撲の認めるところとなって、その前途を立ちふさがれ、
「君、君は相撲だろう」
勇士豪傑の取的連《とりてきれん》が与八を擁《よう》して、これをみのがさないことにする。
「いや、わしは相撲取りじゃござりましねえよ」
「嘘をつけ、相撲だろう、そんな子供は抛《ほう》り出して、ここへ来て一丁|揉《も》め」
「違いますよ、わしは相撲取りじゃござりましねえ」
迷惑がって与八が申しわけをすると、
「まあ、何でもいいや、この身体《からだ》では力をもてあますだろう、一丁附合え」
「御免なさい、わしはなア、お松様のところへ尋ねて来た与八という水車番の男でございまさあ」
「とにかく、体格と力量とは比例するものだから、その体格で力がないとはいわせない、一丁来い」
「御免なさいまし、わしは相撲の手なんぞはちっとも知りましねえ」
「知らなければ教えてやる、また本式の相撲になりたければ、いいところへ紹介してやるぞ、今に横綱の陣幕もここへ来るだろう」
「御免なさいまし、わしは水車番の与八でございます」
「何だ貴様、しきりに水車番、水車番を振り廻しているが、水車番なんぞは自慢にならん、その体格で相撲になってみろ、天下の力士として諸大名へお出入りが叶うぞ」
「どうぞ御免なさいまし、わしは水車番でございますから」
「始末の悪い奴だ、今の横綱力士陣幕も、もとは出雲《いずも》のお百姓だ、それが今は飛ぶ鳥を落す日《ひ》の下《した》開山《かいざん》で、大名やさむらい[#「さむらい」に傍点]と膝組みで話のできる身分になっている、貴様もその体格で勉強さえすれば、世間はいつまでも水車番では置かないぞ」
「いいえ、わしは水車番で結構なんでございます」
「少々足りない」
「まあこっちへ来い」
勇士豪傑の取的連《とりてきれん》は、どうしても与八をつかまえて、物にしなければおかないしつこさ[#「しつこさ」に傍点]。これがために与八は迷惑を極めている
前へ
次へ
全85ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング