よ」
「有難う」
「裏のくぐりから出ることとしましょう。夜中に、あたしが時分を見計らってお前を起すから、それまではゆっくり休んでおいで」
「ああ、あたいはそれまで休んでいるけれど、弁信さん、お前寝過ごしちゃいけないよ」
「大丈夫」
「弁信さん、お前の前だけれどね、あたいはお寺はあんまり好きじゃないのよ、清澄にいる時だって、ずいぶん頑入《がんにゅう》にいじめられたからなあ」
「ああ、そうそう、頑入はずいぶんお前を苛《いじ》めたっけね。けれどもね、頑入の方から言えば無理もないところがあるんだよ、お寺へ入れられてもお前は、少しもおとなしくないんだもの、そうして人の嫌いな虫や獣とばかり遊んでいるんだもの。頑入はお仕置のつもりであんなことをしたんだから、頑入ばかりが悪いと思っているとお前、了見《りょうけん》が違うよ」
「高尾の山には、頑入みたような坊さんはいないだろうなあ」
「そりゃいないだろうけれど、お前、おとなしくしなくちゃいけないよ」
「山へ行きたいなあ」
「山はお前、房州よりもあっちの方が本場だから、ずいぶんいい山がたくさんあるだろう、峰つづきを歩くと、甲斐の国や信濃の国の山へまでいけるんだからね、それを楽しみにしてお前、早くお寝よ」
 二人はここで相談をととのえて、おのおの眠りに就きました。果してその翌日になると、道庵の屋敷にこの者共の影が見えません。そこで、さすが呑気《のんき》な道庵主従も騒ぎ出して見ると、二人の寝た行燈《あんどん》の隅に置手紙がしてあります。それを読んだ道庵が大きな声をして、
「べらぼうめ、逃げるなら逃げるでいいけれど、道庵の家は食物が悪いから居堪《いたたま》らねえの、やれ人使いが荒いから逃げ出したのと、よそへ行って触れると承知しねえぞ」
と言ってプンプン怒ってみたけれども、別にあとを追っかけろとも言いませんでした。ともかくも相談の通りに道庵屋敷を落ちのびた二人の者は、真夜中の江戸の市中をくぐり抜け、弁信は例の琵琶を頭高《かしらだか》に負いなし、茂太郎は盲者の手引をして行く者のように見えましたから、さのみ怪しむものもありません。
 上高井戸あたりで夜が明けました。それから甲州街道の宿々を、弁信法師は平家をうたって門附《かどづけ》をして歩きます。
 茂太郎はその手引のつもりで先に立っていたが、弁信の語る平家なるものが、なにぶん俚耳《りじ》に入らないで困ります。
 祇王祇女《ぎおうぎじょ》を淋《さび》しく歌っても、那須の与市を調子高く語り出しても、いっこう家並の興を惹《ひ》きません。道行く旅人の足をとどめることもできません。
 ある時は、祭文語《さいもんかた》りのために散々《さんざん》に食われて、ほうほうの体《てい》で逃げました。
「弁信さん、お前の平家は、根っから受けないねえ」
 府中の六所明神に近い大きな欅並木《けやきなみき》の下で、一休みした時に、さすがの茂太郎も、弁信法師の平家物語なるものに、そぞろ哀れを催してしまいました。
 ところが、弁信法師はそれほどにはしょげておりません。
「ねえ、茂ちゃん、平家というものは、本来流して歩くように出来ていないのだからね。お江戸の真中だってお前、平家を語って歩いて、それを聞いてくれる人は千人に一人もありゃしないよ。だからなるべくよけいの人に聞いてもらいたいと思うには、これじゃ駄目なんだよ。それで、あたしは琵琶をやめて三味線にし、平家の代りに浄瑠璃《じょうるり》をやってみたいと、ずっと前からそのつもりでいたけれどもね、気に入った三味線が手に入らないし、それから浄瑠璃もまだ人様の前で語れるほどに出来ていないから、やっぱり、まだこうして手慣れた琵琶をやっているのよ」
「だからお前、琵琶をやめて、急いで歩いた方がいいだろう」
「それでもねえ、黙って道を歩くよりは、何かの縁になるものだから、やっぱり、あたしは知っていることは人様に伝えた方がよかろうと思ってよ。人様があたしをお喋《しゃべ》りだという通り、あたしは知っているだけのことはみんな喋ってしまいたいし、聞いてくれ手があってもなくっても、覚えているだけの平家は語ってしまいたいのが、わたしの性分なんでしょう。それについて、ここはお前、武蔵の国の府中の町といって、この府中の町にはお六所様というのがあって、これが武蔵の国の総社になっているのです。あたしは今晩、そのお六所様のお宮の前で、平家を語ってお聞かせ申したいと思っていますよ。昨夜は十五夜でしょう、今夜は十六日ですからね、いざよい[#「いざよい」に傍点]のお月様をいただいて、あたしの拙《まず》い琵琶を神様へ奉納をして上げたいと思って、さいぜんからそのことを考えて来ました。日が暮れて月が上る時分まで待って、そろそろお六所様のお庭へ行ってみましょうよ」
 欅の根に腰をかけた弁信が
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