、こんなことを言い出したから茂太郎も、さすがにその悠長に呆《あき》れました。呆れながらまた弁信らしい願いであると思いました。
「弁信さん、お前がその気なら、あたいだっていやとは言わないよ」
この二人は、木茅《きかや》に心を置く落人《おちうど》のつもりでいるのか、それとも道草を食う仔馬《こうま》の了見でいるのか、居候から居候へと転々して行く道でありながら、こし方も、行く末も、御夢中であるところが子供といえば子供です。
陰暦十六日の月があがった時分に、この二人は相携えて、武蔵の国の総社、六所明神の社の庭へわけいりました。
八
六所明神の前にむしろを敷いて弁信法師は、ちょこなんと跪《かしこ》まり、おもむろに琵琶を取り上げてキリキリと転手《てんじゅ》を捲き上げると、その傍らに介抱気取りで両手を膝に置いて、端然と正坐しているのが清澄の茂太郎です。
こっそりと入って来たから、誰も知る者はありません。
あらかじめ二人の間に約束があったと見えて、琵琶はただちに曲に入りました。その弾奏は自慢だけに、堂に入《い》ったところがあります。大絃《だいげん》は※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]々《そうそう》として、急雨のように響かせるところは響かせます。小絃《しょうげん》は切々《せつせつ》として、私語のように掻き鳴らすところは鳴らします。宮商角徴羽《きゅうしょうかくちう》の調べも、乱すまじきところは乱さずに奏《かな》でます。
果して、弁信法師が、琵琶を弾かせて名人上手といえるかどうかは疑問だけれども、ごまかし[#「ごまかし」に傍点]を弾かないことだけは確かのようで、曲に第五の巻の月見を選んだことは、如才ないと見なければなりません。
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「旧《ふる》き都は荒れゆけど、今の都は繁昌す、あさましかりつる夏も暮れて、秋にも既になりにけり、秋もやうやう半ばになりゆけば、福原の新都にましましける人々、名所の月を見むとて、或ひは源氏の大将の昔の路を忍びつつ、須磨《すま》より明石《あかし》の浦づたひ、淡路《あはぢ》の迫門《せと》を押しわたり、絵島が磯の月を見る、或ひは白浦《しろうら》、吹上《ふきあげ》、和歌の浦、住吉《すみよし》、難波《なには》、高砂《たかさご》、尾上《をのへ》の月の曙《あけぼの》を眺めて帰る人もあり、旧都に残る人々は、伏見、広沢の月を見る……」
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弁信は得意になって旧都の月見を語りました。前にいうようにこの盲法師が、琵琶にかけて名人上手であるかどうかは疑問ですけれども、月夜の晩に、月見の曲を選んで、古今の名文をわがもの面《がお》に清興を気取らず、かなり無邪気な子供らしい声で語るから、人をして声を呑んで泣かしむるほどの妙味はなくとも、聞いていて歯の浮くような声ではありません。
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「中にも徳大寺の左大将実定の卿は、旧き都の月を恋ひつつ、八月十日あまりに福原よりぞ上り給ふ、何事も皆変りはてて、稀に残る家は門前草深くして庭上露|茂《しげ》し、蓬《よもぎ》が杣《そま》、浅茅《あさぢ》が原《はら》、鳥のふしどと荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける、いま、故郷の名残りとては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける」
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弁信法師は得意になって、この妙文《みょうもん》をほしいままに語って退けました。
不思議なもので、こうなって来ると、東夷《あずまえびす》の住む草の武蔵の真中の宮柱に、どうやら九重《ここのえ》の大宮の古き御殿の面影《おもかげ》がしのばれて、そこらあたりに須磨や明石の浦吹く風も漂い、刈り残された雑草のたぐいまでが、大宮の庭の名残りの黄菊紫蘭とも見え、月の光に暗い勾欄《こうらん》の奥からは緋《ひ》の袴をした待宵《まつよい》の小侍従《こじじゅう》が現われ、木連格子《きつれごうし》の下から、ものかわ[#「ものかわ」に傍点]の蔵人《くらんど》も出て来そうです。
ただ、琵琶を抱えている弁信法師だけが、どう見直しても徳大寺の左大将とは見えないとは言え、あまり喋り過ぎた時は小憎らしいほどな小坊主が、この時は、いかにもしおらしい月下の風流者であります。風流者というより敬虔《けいけん》なる礼拝者のように見えました。
茂太郎もまた、しんみりとして、両手をちゃんと膝に置いたままに、神妙に聞き惚れているのに。どうでしょう、心なき御輿部屋《みこしべや》の後ろから姿を見せた白丁《はくちょう》の男が、いきなり長い竿を出して、
「おい、誰だい、そこでピンピンやってるのは誰だい、誰にことわってそんなことを始めた、誰の許しを得て歌なんぞをうたうんだい」
闇の中からがなり出したので、せっかく浮き出した情景が、すっかり壊されました。
「
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