での由を承り、それを頼って参りましたが、不幸にして老師は上方《かみがた》の方へお立ちになってしまったあとなのでございます、それ故に、私も高尾がなんとなくつれなくなりましたから、今宵《こよい》心をきめまして、またも行方定めぬ旅に出でたというわけなのでございます。連れが一人ございます、これは清澄の茂太郎《しげたろう》と申し、私よりも年下の男の子でございます」
 問われないのにこれだけのことを、一息に喋《しゃべ》ってしまった者があります。

         七

 これより先、道庵の家の一間で、中に火の入れてない大きな唐銅《からかね》の獅噛火鉢《しかみひばち》を、盲法師《めくらほうし》の弁信と、清澄の茂太郎が抱き合って相談したことには、
「茂ちゃん、また困ったことが出来たね」
「どうして」
「お前がこの間、上手に笛を吹いたものだから、たちまち評判になって、あれは清澄の茂太郎だ、清澄の茂太郎が道庵先生の家に隠れていると、こう言って噂をしていたのが広がってしまったようだよ」
「困ったね」
「それが知れるとお前、また小金ヶ原のような騒ぎがはじまって、二人が命を取られるかも知れない、そうでなければ両国へ知れて、またお前が見世物に出されてしまうかも知れない」
「どうしたらいいだろう、弁信さん」
「わたしは、それについて、いろいろ考えてみました、うちの先生に御相談をしてみようと思ったけれども、うちの先生は、そんな相談には乗らない先生だから困っちまう」
「どうして、先生が相談に乗らないの」
「でもね、先生に薄々《うすうす》その話をするとね、先生があの調子で力《りき》み返ってね、ナニ、お前たちを取り戻しに来るものがあるって? 有るなら有るように来てごらん、幾万人でも押しかけて来てごらん、憚《はばか》りながら長者町の道庵がかくまった人間を、腕ずくで取り返せるなら取り返してみろ、とこう言って大変な力み方で、わたしたちの言うことを耳にも入れないのだから、先生に相談しても、トテも駄目だと思います」
「では、どうしたらいいだろう」
「茂ちゃん、先生にはほんとうに済まないけれどもね、二人で今のうちにここを逃げ出すのがいちばんいいと思ってよ、今のうち逃げ出せば、二人も無事に逃げられるし、先生のお家へも御迷惑をかけないで済むから、今のところは御恩を忘れて、後足で砂を蹴るようで、ほんとうに済まないけれども、あとで私たちの心持はわかるのだから、いっそ、そうしてしまった方がよいだろうと思う。茂ちゃん、お前逃げ出す気はないかえ」
「弁信さん、お前が逃げようと言うんなら、あたいも逃げる」
「それじゃあ逃げることにしようよ、それもなるべく早い方がいいから、今晩逃げることにしようよ」
「あたいはいつでもいいけれど、逃げるって、お前どこへ逃げるの」
「逃げる先は、わたしがちゃんと考えてあるから心配をおしでない」
「もう、小金ヶ原じゃあるまいね」
「まさか、二度とあそこへ逃げられるものかね、今度は全く方角を変えて、いいところを考えてあるんだから心配をしなくってもいい。それでね茂ちゃん、もう一つ相談だが、お前、ここでいっそわたしと同じように、坊さんになってしまう気はないかえ」
「頭を丸くするの、なんだかイヤだなあ」
「イヤなものを無理にとは言わないけれど、向うへ行って長くいるようなら、そうしておしまいよ」
「そりゃあ、お前、都合によっちゃあね、坊さんになってもいいけれども、いま直ぐじゃきまりが悪いよ」
「いま直ぐでなくってもいいのよ、その心持でいてくれればいいの」
「そうして、お前、逃げて行く先はどこなの」
「それはねえ、これから甲州街道を上って行くと、甲州境に高尾山薬王院というお寺があるのよ、そこへ逃げて行こう」
「お前、そのお寺と懇意なの」
「そのお寺に、昔わたしに琵琶を教えてくれたお師匠さんが、御隠居をなさっていらっしゃるということを思い出したんだよ」
「それはよかったね」
「そんなに遠いところじゃないのよ、ここから十五六里ぐらいのものでしょう。茂ちゃん、お前は足が達者だし、わたしは眼が見えないけれども、旅をすることは平気だから、十里や二十里はなんともありゃしないね」
「十里や二十里、なんともないさ」
「それじゃお前、今夜、人が寝静まってから逃げ出すことにしようよ。先生はお帰りになるかならないか知れないけれど、どちらにしてもあの通り酔っぱらっておいでなさるから、夜中に眼をおさましなさるようなことはないけれど、国公さんに気取《けど》られないように気をつけて下さい」
「ああ」
「そのつもりで、あたしは草鞋《わらじ》をちゃあんと買っておきました、少し大きいけれども、茂ちゃん、お前もこれをお穿《は》き」
「有難う」
「お小遣《こづかい》は、あたしが持っているのを、お前にも分けて上げる
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