父様がほんとうに薄情なお父様でしたら、あなたは、わたしの子になっておしまいなさい、ねえ、登様、登というお名前は、わたしが附けて上げたんですからね。お父様なんぞ来なくてもいいでしょう、松がいればあなたは御満足でしょう」
「さあさあ、乳母《ばあ》やがおっぱいを上げますから、乳母やのお子さんになりなさい、お松様はお乳を上げることができませんから、本当のお母さんにはなれません」
「乳母やは、ああいう口の悪い人ですからね、乳母やに懐《なつ》いてはいけませんよ」
といって、二人はたあいもなく、一人の嬰児《みどりご》を可愛がっていると、次の間で、
「あの、皆様、もうお説教が始まりますから、広間へお集まり下さいまし」
「まあ、そうでしたね、もうお説教の刻限でしたのに、忘れていました、参りましょう。坊ちゃまがむつ[#「むつ」に傍点]からなければ、乳母《ばあ》やもいらっしゃいな」
「はい、わたしもぜひ聴聞《ちょうもん》をさしていただきたいつもりでございます」
こういって二人はこの部屋を立ちました。
広間には今、五十名余りの男と、三十余名の女とが席を分けて集まっています。
女座の方は、けんしきの高いこの屋敷の御老女様を中心に、数多《あまた》の女中。男は例の荒くれな浪士たちを主にして、老少の者も交っています。
ここでお説教がはじまる。この取交ぜた一座に聞かすお説教師も、相当に骨が折れるだろうと心配される。
お松は乳母《うば》を連れて御老女の背後《うしろ》の方へ坐る。しかし容易にお説教の導師は現われない先に、ともかくも定員がほぼ揃うたと見きわめて、前の方に控えていた例の南条力が、坐ったままで膝を一同の方へ捻《ね》じ向けて、
「さて、おのおの、今日は御老女の思召《おぼしめ》しと、我々の希望とにより、慢心和尚を屈請《くっしょう》して、一席の説教を聴聞致す次第でござるが、和尚は、今日、甲州の恵林寺から下山致された。御承知でもござろうが、甲斐の恵林寺は、武田信玄以来の名刹《めいさつ》で、昔、織田信長があの寺を攻めてやきうちを試みた時、寺の主《あるじ》快川国師《かいせんこくし》は楼門の上に登り、火に包まれながら、心頭を滅却すれば火もおのずから涼しといって、従容《しょうよう》として死に就いた豪《えら》い出家である。それで只今の慢心和尚も、道力《どうりき》堅固を以て知られてはいるが、なにぶん越格《おっかく》のところが多く、我々には測り兼ねる器用がござる故、今日は懇《ねんご》ろに請うて、初学の者、或いは婦人子供たちにもわかるように、特に垂示《すいじ》を煩わす次第でござるが、しかし、あの和尚のこと故に、時々脱線して……凡慮には能《あた》わぬことをいい出されるやも知れない。しかし、そのうちには必ずや身になるべき教訓も多きことと思わるる故、神妙に聴聞なさるよう。わかってもわからなくても、その道の者の為すこと、言うことにはおのずから妙味の存するもの故に……左様な次第でござるから、和尚は今日は日頃と違い、全くものやわらかに……」
南条力がこう言って紹介の半ばに、一人の女中が廊下から来て、そっとお松の袖を引き、
「お松様」
お松も小声で、
「何ですか」
「あの、沢井の与八さんとおっしゃる方が、尋ねておいでになりました」
「与八さんが?」
といって、お松は驚きもしたし、この席も立てない心持で、ちょっと返答にさしつかえたが、思いきって、
「今わたくしが参ります」
と言ってお松は、そっとこの席を外しました。
「裏の潜門《くぐり》の所に待っておいでなさいます」
「そうですか」
お松は廊下から下駄を穿《は》いて、小門の所まで出て来ますと、郁太郎を背負い、日傘をさした与八が立っていました。
「おお、与八さん、よくおいでなさいましたね」
「お松さん、久しぶりでしたね」
「まあ、こっちへお入りなさい」
「お忙がしくはねえですかね」
「いいえ」
お松は欣々《いそいそ》として与八を自分の部屋の方へ導いて来ましたけれど、久しぶりのお客をもてなしたいし、それに今はじまろうとするお説教も聞きたいしで、
「あのね、与八さん、ちょうどよいところです、今ね、あの広間で有難いお説教がはじまるところなんですから、そのまま足を洗って、広間へおいでなさいな、一緒にお説教を聴聞致しましょう。お説教が済んでから、いろいろとあなたのお話を伺いましょう、ね、いいでしょう」
「それは有難いことでございます、そんならわしも、お説教のう、ひとつお聞かせ申していただくべえ」
三十六
お松も再び席に着き、与八も郁太郎を抱いて末席についた時分に、慢心和尚が壇上に現われました。
以前から近づきの人はともかく、はじめて慢心和尚の姿に接したものは、あっ! と驚きの声を禁ずることができません。
世の中
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