傍点]に見惚《みと》れている通り、いま物を尋ねて過ぎ去った大男は、たしかに相撲に見まほしき肥満の若者でありました。けれども相撲ではない証拠には、その着物といい、言葉つきといい、ドコまでも質朴《しつぼく》な田舎者《いなかもの》で、前髪がダラリと人のよい面《かお》つきの広い額の上にさがっているところは、もうかれこれ二十歳《はたち》であろうのに、どこかに子供らしいところがあり、草鞋《わらじ》がけでかなりの道中を、江戸までスタスタ歩いて来たものと見えます。
「えてして、宝の持ち腐れというものが、この世間にはどのくらいあるか知れねえ、うまく掘り出せば横綱になる代物《しろもの》を、一生、田の草取りで終らせるのがいくらもあるだろう、今のなんぞも百姓には惜しいもんだ」
 二三の若い者は、これを捨ゼリフの送《おく》り詞《ことば》で、あっちへ向くと、もう両国の盛り場の人混みへ見えなくなってしまいました。
 この大男は武州沢井の水車番の与八。背に負うているのは机竜之助とお浜との間に出来たことし三つになる郁太郎であります。
 その尋ねて行く先は、相生町の老女の家。
 橋を半ばまで渡った時分に、人が争って南の欄干に集《たか》る。
「相対死《あいたいじに》」
「相対死」
「何ですか」
「つまり心中なんです、あれごらんなさい、心中者の死骸が見つかりました、ああして船の中へ引き上げたところです」
「なるほど」
「どこの人ですか」
「それはわかりませんが、姦通《まおとこ》だということです……引き上げられてからまたその死骸を、三日の間|曝《さら》されるんだそうですよ」
「業曝《ごうさら》し」
「罪ですね」
 橋の下を潜り抜けて、矢の倉の河岸の方へ行く小舟には、打重なった死骸。白い肌、濡れた髪、なまめいた衣裳の乱れ、男女相抱いた姿が、晴天白日の射るに任せている。
「南無阿弥陀仏」
 眼をつぶった与八。
「畜生、洒落《しゃれ》てやがら、こっちは心中どころじゃねえ、おまんまが食えねえんだ」
 与八の傍で、憎たれた口を利《き》いた一人の乞食。この声で、眼をさました郁太郎が、むつかり出すのを与八がなだめて、その場を外し、志すところの相生町へ急ぐ。

         三十五

 相生町の老女の家の一間に、まだ新しい仏壇の前で、お松は赤ん坊を抱き、
「乳母《ばあ》や、ごらんなさい、登様が笑いましたよ。まあなんという可愛いお児さんでしょう」
「まあ、お可愛いこと」
 乳母やと二人、同じようなことをいって、一人の赤ちゃんを可愛がっている。
「まあ、成人したら、どんなにお立派になることでしょう、この目鼻立ち、殿様にそっくり[#「そっくり」に傍点]なんですもの」
「お姿は殿様に似ても、お心は殿様に似ないように御成人なさいまし、ねえ、坊ちゃま」
「何をいうんです、乳母《ばあ》や」
 お松は乳母《うば》のいったことをたしなめるように、
「お心なら、御器量なら、残らずあの殿様におあやかり[#「あやかり」に傍点]なさいまし」
「いいえ、お心はあの殿様に似てはなりませんよ、登様」
「乳母《ばあ》や、まだやめないの、そんなことをいうと罰《ばち》が当りますよ」
「いいえ、罰は当たりません、登様、あなたのお父様は薄情なお方ですから」
「いけません、登様、あなたのお父様は、いいお方なんですよ」
「いいお方ならば、こんな可愛ゆい坊ちゃまを、こうしてはお置きになりますまいに――」
「でも仕方がありませんね、お父様はこのことを御存じないんだから……そのうちムクが帰ったらきっと、あなたのお父様から便りがありますから、それまで待っていらっしゃい、そうしてお父様のお便りがあった時は、この憎らしい乳母《ばあ》やをうんと叱っておやりなさい」
「ほんに、ムクはまだ帰りませんが、途中で間違いがあったんじゃないでしょうか」
「いいえ、大丈夫です、あの犬に限って間違いなんぞはありゃしません、きっとそのうちに殿様のおいでなさるところを突留めて参りますから、見ていてごらん」
「ですけれどもお松様、よしんば殿様はあの手紙をごらんになっても、お返事を下さいますか知ら。殿様は不憫《ふびん》と思召しても、お家への義理で、知って知らないふりをなさるんじゃないか知ら。またお附の衆が、こんなことを知ったら、かえって仲を隔てるようなことになりゃしないかと、わたしはそれを心配していますよ」
「いいえ、駒井の殿様は、そんなお方じゃありません……もし、そういうお方でしたら、かえって幸いですよ、このお子さんをわたしが弟にしてしまいますもの」
「お松様、あなたが、坊ちゃまを横奪《よこど》りなさるんですか。坊ちゃまの周囲《まわり》には怖い人ばかり附いていますね」
「怖い人が附いていて丈夫に育てて上げなければ、お君様に申しわけがありません。登様、あなたのお
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