しい。
夜具を展《の》べ終った茂太郎は、大きな桐火鉢の縁《ふち》へしがみ[#「しがみ」に傍点]つくように坐り込み、
「おじさん」
兵馬はおじさんといわれるのがなんとなく擽《くすぐ》ったい。
「何だ」
「おじさんは剣術が出来るんだろう」
「それは少しは出来る」
「剣術が出来れば怖いものは無いんだね」
「そうもいかないね」
「荒木又右衛門と柳生十兵衛と、どっちが強いの」
「それは柳生十兵衛が強いだろう、先生だから」
「それでは柳生十兵衛と宮本武蔵では」
「それはわからない」
「おじさん、天草軍記《あまくさぐんき》の話をしてくれないか、寛永年間の天草軍記」
妙な無心をはじめたものです。
「君は話が好きかね」
「大好き。そのうちでも、あたい天草軍記が大好きなんだから、おじさん、知ってるなら教えておくれよ」
「わたしは、よく知らない」
「よく知らなけりゃ、少しでもいいから」
話を聞きたがってせがむ[#「せがむ」に傍点]ところは、世の常の少年と少しも変りはない。けれども、兵馬にはこの少年の知識慾を満足せしめるほど、天草軍記の知識を持っていないという引け目があるのと、もう一つは何か最初から気にかかることがあって、
「それより、拙者の方で君に聞きたいことがある、このお寺には君とあの弁信殿と、そのほかにまだお客があるの?」
「そのほかに吉田先生がいます」
「吉田先生とは?」
「あたいは知らないけれど、弁信さんがよく知っています」
「その人は何をしています」
「病気なんでしょう」
「どこにいます」
「あちらの奥の八畳の間に一人でいます」
「若い人ですか、お年寄ですか」
「どうだか知りませんが、そんなに年寄じゃないでしょう、お雪ちゃんと、よく話が合うくらいだから」
「君は、その人と会ったことはないのか」
「ありません。会わせてくれないんだもの」
「会わせてくれない? 誰が……」
「弁信さんが、あぶ[#「あぶ」に傍点]ないから、お前、あそこへ行ってはいけないと止めるから、あたい、一度も行かない」
「どうして危ないの」
「どうしてだか、それがわからないんです。ただ、危ないから、あのお部屋の傍へ寄ってはいけないと、無暗に弁信さんが止めるから、あたい、変だと思っているの。そのくせ、弁信さんは、自分じゃ平気で入って行くんだからね。でもこのごろはあんまり行かなくなりました。その代り、お雪ちゃんがちょいちょい行きますよ。あたい、変だと思うけれども、人が止めるものを無理に行きたかないから、それで行って見たことはありません。悪い病気の人かも知れません」
「茂ちゃん、茂ちゃん」
あちらでお雪の呼ぶ声。
「ああい」
茂太郎は大きな声で返事をして立ち上り、
「お休みなさい」
「お休みなさい」
兵馬は、やがて寝に就きました。まもなく、軒を打つ雨の音。
庭の立木もさわぐ。ようやく雨が降りしきる模様。
雨垂《あまだれ》に枕を叩かせて、うとうとと寝入る兵馬。昨夜もあの騒ぎでおちおち眠れない。このごろ中よく眠れない。今宵こそは、ともかくも一夜の熟睡を貪《むさぼ》って、明日はこの寺を立つのだ。
現在、同じ寺のうちに、多年|敵《かたき》と覘《ねら》う人と泊り合わせの運命に置かれながら、それを怪しむこともなく、それを尋ねる縁もなく、今日はこうしてちかより、明日はまたこうして離れて行く。彗星《すいせい》と遊星とが、近づく時は圏内《けんない》に入り、離れる時は何千万里の大空をそれて行くように。
三十四
両国広小路の人混みを離れた一人の大男、三歳《みっつ》ばかりになる男の子を十文字に背負って、極彩色の花の中宿《なかやど》の日傘をさし、両国橋の袂《たもと》まで来て、
「もうし、物をお尋ね申したいが、あの本所の相生町というのは、どう参ったらよろしうございますかね」
「相生町へ行きなさるか……」
尋ねられた若い衆は、すぎこし方《かた》を指さして、
「それ、この橋を渡りきると左手に辻番がある、それを左へ行っちゃいけねえよ、右へ行くんだね。右へ行くと元町というのがあらあ、それを河岸《かし》へ伝って行くと相生町へ出まさあ、左が松坂町……」
「どうも有難うございます。序《ついで》にお聞き申したいのは、その相生町に、御老女様のお屋敷というのがござりますか」
「御老女様のお屋敷だって? そんなのは、ツイぞ聞かねえが、まあともかく、いま言った通りに行ってごらんなさい、相生町へ出たら、もう一度聞いてごらんなさるさ」
「有難うございます」
丁寧にお辞儀をして、教えられた通りに橋を渡りかけた子持ちの大男。
それを、やり過ごして見送っている尋ねられた若い者二三人。
「いいかっぷく[#「かっぷく」に傍点]だなあ、たしかに十両がものはある」
そのかっぷく[#「かっぷく」に
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