て通してくれたから、兵馬は、その屍骸に近づいて見る。
 それは、面《おもて》も向けられない惨憺《さんたん》たるもので、なるほど悪獣に食い散らされた残骸ということは、一見して兵馬にもわかる。またその頬冠《ほおかむ》りの体《てい》や、着物の縞柄《しまがら》を見ても、多分――ではない、全く昨夜の悪者共に相違ないと頷《うなず》かれたが、ただしかし、兵馬が、もう一層近く寄って、この屍骸を検視した時に、容易ならぬことを発見しました。
 この屍骸は、二つとも斬られている――食われる以前に――その一つは左の肩からほとんど下腹部まで垂直に――他の一つは横なぐりに頭蓋骨を――それは実に水も堪らぬきりかたであると共に、尋常茶飯《じんじょうさはん》の如く慣れきったるきり手である。兵馬は舌を捲いて怖れました。
 誰もが、食われたことを知って、斬られたことに気がつかない。物に慣れた検視ならば、やはり同じように戦慄《せんりつ》して、舌を捲いて、怖るべきものを、ここに集まっている人々は、誰もそこまで気がつかない。
「これはたしかに、昨夜入った賊共に違いござらぬ、この紙も、この金も、たしかに――しかしながら解《げ》せぬことは……」
 兵馬は、実に、これだけのきり手を、如何様《いかよう》に想像し、如何様に判断すべきかに苦しみました。
 これがために宇津木兵馬は、その日|発足《ほっそく》というわけにもゆかなくなりました。
 しかし、食い散らされた死体のことは、誰も兵馬と同じ疑いを抱くものはなく、ただ狼が人を食うという噂《うわさ》のみが、駅路筋に伝わって、聞く人をして戦慄せしめるに留まったのは寧《むし》ろ幸いでした。ために、食い散らされた二個の死体は、町はずれの馬棄場《うますてば》へ持って行って埋められ、いっさいの責《せめ》が狼に帰せしめられてしまうと、自然、報福寺も宇津木兵馬も、これ以上のかかり合いからは免《のが》れた次第です。
 けれども兵馬の胸には、解き難い疑問がいくつも残されているが、この際、まだ混乱から癒《いや》されない頭では、その一つを選んで熟考する遑《いとま》がない。
 その日一日、兵馬は茫然として暮らし、夜になって、例の本堂へ休ませられる時に、蒲団《ふとん》をのべに来たのが、例の清澄の茂太郎であります。
「お床をのべて上げましょう」
「有難う」
 その時、兵馬の頭にきらめいたのはこの少年だ。昨晩、哀願的に自分に向って妥協を申し入れたのは――
「おじさん」
「何です」 
「昨夜《ゆうべ》のことは、誰にもいわないで下さいね」
「ああ、誰にもいいはしないが、あの狼はどうしました」
「山へ逃がしてやりました」
「君はいったい、どこからその狼をここへ連れて来たんですか……」
「ええ、あたいが、山へ行ってそっと連れてきたんですが……」
「昨晩、火の見櫓の下で、盗賊を食い散らしたのはその狼だろう」
「あたいもそうだと思うんです。ですから、それが知れるとよけい叱られちまうんですよ。けれども、もう大丈夫です、山へ逃がしてやりましたから」
「君は、どうしてまた、そんな怖いものをここへつれて来たのだ、狼が怖くはないのかね」
「山で遊んでいるうちに、あたいのあとをついて来て離れないものだから、ついお友達になってしまいました」
「狼と友達?」
 兵馬は呆《あき》れてしまいました、この面立《おもだ》ちの可愛げな少年が、山へ行って狼と遊び、狼がそのあとを慕うて離れないというのは奇怪ではないか。
「ふん、それで、お前は狼が怖くはないのかね」
「怖かありません、大好きです。狼ばかりじゃありません、山の鳥や獣はみんな好きです。あたいが好きだから、向うもあたいを好きなんでしょう」
「で、その狼は、平常《ふだん》から、君が大事にして育てていたのではないのか」
「いいえ、昨日、山へ行って口笛を吹いたら出て来たんです」
「食いつかなかったの?」
「食いつきませんとも」
「不思議だ」
 兵馬は驚嘆して、この少年の面《おもて》を見比べますと、別段、山男の落し児とも思われない目鼻立ちの清らかな少年に過ぎません。
「だけどもね、おじさん、あたいが一つおかしいと思うのは、ゆうべ、誰かあの狼をこの縁の下から連れ出した人があるんですよ。それは、泥棒の入った前ですね」
 途方もないこと。この少年を別にして、どこの国に、狼を引張り込んだり、つれ出したりする奴がある。兵馬はこの少年の平気な面《かお》をかえって怖ろしいと思いました。
「そう無暗に狼を引き出したり、引込めたりする奴があるものか」
といいますと、
「いいえ、狼だって、そんなに怖いものじゃありません、こっちが怖がるから、向うも怖がるんでしょう」
 語気によって察すると、この少年は山に行って、あらゆる悪獣毒蛇をも友とし得るの魔力か、無邪気さかを持っているら
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