彼がとまればこれもとまり、これが歩めば彼も歩んで、ある一定の間隔を置いて、ドコまでもついて来る二つの黒い物影があります。
これは何。犬に似て、犬よりは痩《や》せている。獏《ばく》というものに似て、獏よりは残忍。
それは月見寺の本堂の縁の下にいました。竜之助が庭へ姿を現わした時分に、同じく縁の下から這《は》い出して、最初は少しく唸りましたけれども、やがて静かにそのあとを音もなく歩んで来るのみです。
この二つの黒い物影は狼――送り狼という。物を見れば、それが転ぶところまでついて来る。その物の転ぶを待って、骨まで食《くら》いつくすのがこの狼の本性であります。
そこで悪魔は二箇《ふたり》づれになりました。
けれどもこの小規模のハイランドには、むざむざと闇黒の餌食となるほどの罪造りはいないと見えて、夜の領分を、夜の人が行くに任せて、驚く人も、驚かるるものもありません。
黒影の人と、送り狼とが、或いは行き、或いはとまり、見えたり、隠れたり、ひらりひらりと夜遊びをしている深夜のハイランドの天地は、至極沈静無事なことですけれども、かえってその別の方面は、無事ではありませんでした。
寺の本堂で熟睡に落ちていた宇津木兵馬。それを不意に呼び起すもの。
「モシ」
この時早く、兵馬は眼をさまして脇差の下げ緒を手繰《たぐ》っていると、
「モシ、お目ざめでございますか」
物を憚《はばか》る小さな声。
「どなたでござる」
「御免下さいまし、私はただいまこのお寺に御厄介になっております弁信と申す盲目《めくら》の小法師でございます」
「どうか致しましたか」
「はい、お静かに願います、お静かに――」
おかしい物のいいぶりだと思いました。けれども、怪しい物のいいぶりだとは思いません。何かに怖れて、オドオドとしてやって来たもので、人を驚かそうとして忍んで来たものでないことは明らかです。自分がオドオドしながら、お静かに、お静かに、と暗いところを歩み寄って来るのが笑止といえば笑止だが、何かの変事を後ろに惹《ひ》いて来ていることは間違いなかろう。兵馬もおのずから固唾《かたず》をのむと、
「御免下さいまし、お休みのところをお驚かし申して甚だ失礼でございますが……」
この際、馬鹿丁寧な前置はいらないはず。
「いったい、どうしたのです」
「あの、ただいまこのお寺に盗賊が入りましてございます」
「ナニ? 盗賊が……」
それは聞き捨てにならない。
「でございますけれども、どうかお静かに願います、入りました盗賊は、たしか二人でございます」
「二人? 二人だけですか」
「エエ、二人だけのようでございますが、まアお待ち下さいまし、私はここで大きな声を致してよろしいか、また、あなた様に出合っていただいてよいか、それがわからないのでございます。なぜならば、もうあの二人の盗賊は、多分、住持の老僧と、お雪ちゃんという娘と、それから針妙《しんみょう》のお光さんというのを、三人だけ縛り上げてしまったようなのでございます。ここで声を立てようものなら、あの盗賊たちが怒って、あの三人を殺してしまうかも知れません。ですから、だまっていた方が無事でしょうか。知って知らないふりをして、盗賊たちに取るだけのものを取らせてやった方が無事でしょうか。それともほっておけば、いい気になって、針妙のおばさんや、お雪ちゃんがあぶないのではないでしょうか。私の思案には余りました。あちらにいる先生のところへ、そっと参りましたところが、いつもおいでのところにいらっしゃらないから、そこで、あなた様のことを思い出して御相談に上りましたのです。何を申すも、わたくしは目の不自由な小坊主でございますから……」
「こうしてはおられぬ」
兵馬は脇差の下げ緒を口にくわえて、手早く帯を引結びました。
「あなた様、お出合いになりますか」
「聞き捨てになろうことか」
「けれども、あなた様、どうかもう一応お静まり下さいまし。人の危うきを聞いて難におもむくのは勇士の心とやらでございますが、それがために二重三重の災難の生ずることもございます、一旦のはじに目をつぶれば、とにかく目前の急から救われることもございますから……」
「かれこれといっている場合ではござらぬ」
兵馬は案内知ったる庫裡《くり》の方へと進みました。
住持の居間では、たしかに人の言い罵《ののし》る声がします。兵馬は抜足《ぬきあし》して、その明け開いた襖《ふすま》の蔭に立寄ってうかがうと、弁信法師の報告はほとんど見て来たようで、住持は床柱の下に、お雪と針妙とはやや離れたところに、いずれも両手を結《ゆわ》えられ、猿轡《さるぐつわ》をはめられて、引転がされているところに、頬冠《ほおかむ》りした二人の兇漢が、長いのを畳へつきさして、胡坐《あぐら》を組んで脅迫の体《て
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