さい」
「大丈夫です」
これだけ念を押しておいて、さて茂太郎もやや安心顔に、再び、
「お休みなさい」
といって出かけようとすると、丁度、そのあけてはならないといった方角の縁の下あたりで、唸《うな》る声が聞えました。この唸る声を聞くと、早くも面色《かおいろ》を変えたのが茂太郎で、
「いけない」
といいました。さては、もう、その化物なるものが出だしてしまったのか。犬の唸り声としてはなんとなく凄い。やや長く唸りを引き出したから、釘づけのように突立った茂太郎が、
「いけない、いけない」
と畳の上に二三度、地団太《じだんだ》を踏んで、
「だまっておいで、今、何か捜《さが》して来て上げるから、だまって待っておいで」
といって縁の方へ飛び出して、あけてはならないと断わった戸口を、ガタガタと自分で一尺ばかりあけて、外を覗《のぞ》き、
「吠えてはいけないよ……おとなしくしておいで」
そこで、今しも凄い唸りを立てはじめた化物が、すっかり静まってしまいました。もとへ戻って来た茂太郎は、兵馬に向い、さも妥協を申し入れるような態度で、
「お客様、だまっていて下さいね、後生《ごしょう》だから。言うと、あたいが叱られるんだから」
「何です、今のは」
「あれはね、お客様、本当のことをいえばお化けじゃないんですよ、狼が二匹、この縁の下にいるんです、あたいが山から連れて来て隠して置くんです、いうとみんなに叱られるからね、誰にもいわないで下さいね」
少年の哀願を聞いて兵馬も驚きました。なるほど狼を連れて来て、隠しておくのでは叱られるにきまっている。けれども、こうなると、連れて来られた狼よりも、連れて来たこの少年が怖ろしい。
三十二
別にその夜更けて、月見寺の裏庭から動き出した真黒い人影があります。
これは山岡頭巾《やまおかずきん》で面《かお》の半ば以上は隠れ、黒い紋付の羽織、着流しでスラリとした形、腰に大小、手に竹の杖をついて、ふらふらとして夢の国を歩み出したその人は、机竜之助でありました。
庭を越えて、宮の台なる三重の塔をめぐって駅路へ行く路、或いは動き、或いは動かず、しかしながら闇路《やみじ》を縫うて、徐《おもむ》ろに下りて行くのは、紛《まぎ》れもない駅路への一筋路であります。
打絶えてこういうことはなかった。曾《かつ》て甲府の城下にある時、また本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》を出でて、江戸の市中をさまよう夜な夜なは、この姿で、この男の動くところには、必ず血が流れていたのに――今はもうその時でも、その所でもなかったろうはずなのに――ひらりひらりととめどもなく歩いて行く手は人里。
自然は眠り、人は定まって、屋の棟も三寸さがる時に、悪魔は人の寝息を嗅《か》ぎに出る。
昼は光明の世界、夜は悪魔の領分。
光明の世界に働いた人は、闇黒の夜は寝てしまえばよい。闇黒を悪魔に与えてその跳梁《ちょうりょう》に任《まか》し、夢の天国を自ら守る人には、永久に平和が失われないのである。
天真なる小児に、夜歩きをさせてはならない。
老いて子に従うことを知る者も、また夜の悪魔の領分を犯してはならない。
忠実なる昼の勤労の疲れを味わう人は、夜の酣睡《かんすい》をほしいままにし得るの特権がある。
美しきも、美しからざるも、若い娘たちは夜歩きをしてはならない。
恋があろうとも、なかろうとも、若い男たちは夜遊びにふけってはならない。
親の死目に急ぐ旅でさえも、なるべくは悪魔の領分を犯さないがよろしい。
善良な夫はその妻に夜歩きをさせない。貞淑《ていしゅく》なる妻は夜の夫の全部を自分のものとする。
そうしておけば、悪魔はその食《くら》うべきものがなくなる。闇黒の世界に闇黒を食うて、ついに闇黒以外のものに累《るい》を及ぼすということがなくなる。
夜眠らざる人は罪悪である。或いはその罪悪を守る人である。どうかすると火の番の廃止を恐れて、火をつけて廻る火の番さえある。
ところで、悪魔は大抵はひとり歩きをするものである。ひとり歩きをする者の全部が悪魔ではないが――天才と悪魔とは往々ひとり歩きを好む。
孤独は人を偉人にするか、或いは悪魔にすることがある。故に人は夜を怖るると共に、独《ひと》りを怖れなければならぬ。
善良なる青年は早くよき処女を求むべきである。かくて良き夫はまたその妻に好き子供を産ましむべきである。良き子供はまたなるべく良き兄弟と、良き朋友《ほうゆう》の多くを持つのが幸いである。
したがって、よき親はまた当然その子のために、よき配偶を心配する。
偉人と悪魔のみが孤独である――しかし、この悲しむべき悪魔に、今宵は連れのあることが不思議です。
机竜之助が、暗黒の世界に、ひとり闇黒の身を歩ませたその背後に、影の如く、形の如く、
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