す。
「少しばかり歩いたとて、そう疲れるはずはないのですが、なにぶん、今度のは不意に思い立ったものですから――」
 しかしながら、その言いわけに落ちて行くのも、お雪にとっては通り一遍で、
「そのつもりで出ませんと、旅は疲れるものでございます。あの、御飯を差上げとうございますから、あちらへお越し下さいませ」
 兵馬は、ちょっと動き兼ねる風情《ふぜい》で、
「それは痛み入りますが、おさしつかえなければ、ここで御好意にあずかりましょう、そうして、いずれへなりとも休ませていただきとうございます」
「それでは……」
といって、お雪は勝手の方へ向い、
「茂ちゃん、茂ちゃん」
と呼びますと、
「はーい」
と子供の返事。
「お客様のお膳を、こちらへ上げてください」
「はい」
 黒塗りのお膳を捧げて出て来た少年は、清澄の茂太郎であります。
「何もございませんが……」
 お雪が、そのお膳を兵馬の前に据えると、兵馬は恐縮して坐り直し、
「あつかましい至りですけれども、ドコまでも御好意に甘えて……」
 兵馬はおしいただいて膳に向います。事実、食膳に向う時、兵馬は色の白い飯に向って、慄《ふる》えつくほどの有難味を感じました。
 兵馬が箸を取り上げた時、
「茂ちゃん、済みませんが行燈《あんどん》をここへ持って来て下さいな」
 そこで以前の少年が、身の丈ほどの四角な古びた行燈をヨチヨチと持ち出して、
「持って来ました」
「御苦労さま、お客様の傍へ置いて下さい、もう少しこっちがいいでしょう」
「ここでいいですか」
「ちょうど、ようござんしょう」
 お雪ちゃんが、何もかもとりしきっているもてなし[#「もてなし」に傍点]、兵馬は涙に咽《むせ》ぶ心持で箸を取り上げながら、行燈を見ると無性《むしょう》に懐《なつ》かしくなります。古びた紙の色に黄がかった光。見廻すと、天井が高くて、四方がだだっ広く、大きな炉の傍にはお雪が一人、行燈を持って来た少年は立ちながら栗をむいている。台所では誰やら水仕事をしているらしい。
「塩山の恵林寺へ参りましてな、あそこの師家《しけ》の慢心和尚に、相談をかけようと致したが、和尚に追い出されて、またスゴスゴとここまで戻って参りました」
 兵馬が問わず語りにいい出すと、お雪が、
「恵林寺へおいでになりましたのですか」
 兵馬はえりんじ[#「えりんじ」に傍点]と棒読みにしてしまうが、お雪はえ[#「え」に傍点]りんじと「え[#「え」に傍点]」へ力を入れていいます。
「左様、恵林寺では、ヒドイ目に会いましたが、こちらでは温かい御好意を受けまして、これで生き返った思いが致しました」
「おかまい申すこともできませんで……」
 兵馬が涙に咽《むせ》びながら、徐《しず》かに一杯の飯を食べ終った時、どこかでビーンと絃《いと》の鳴る音がしました。まさしく平家琵琶の調子でありましたから、兵馬は、はて、この寺にはまだ琵琶法師がいるのだなと感じました。
 けれども今の兵馬には、琵琶に耳を傾けている余裕がありません。
 食事が終って、清澄の茂太郎に本堂へ案内された時、
「あの琵琶を弾《ひ》いているのは誰ですか」
「あれは弁信さんです」
 弁信さん――だけでは茂太郎の独合点《ひとりがてん》で、兵馬にはのみこめない。
「そうして、あの娘さんは、君の姉さんですか」
「違います、あれはこのお寺の娘さんです」
「では、君は?」
「わたしは居候《いそうろう》です、わたしも弁信さんも、それから吉田先生も、三人ともにこのお寺の居候で、あの娘さんだけがお寺の人なんです」
「そうですか」
 その時、茂太郎は持って来た行燈を片隅に置くと、そこは本堂の一部の細長い部屋で、壁には狩野派《かのうは》の山水がいっぱいに描かれてある。隣室から夜具を運んで来た茂太郎は、早くもそれを展《の》べ終って、
「お休みなさい」
「有難う」
 かいがいしく世話をしてくれる少年に、兵馬は何かやりたいものだと思いましたが、さて何も持っておりません。
「行燈をここへ置きますから。燧道具《ひうちどうぐ》はこの抽斗《ひきだし》に揃えてあります」
「それはそれは」
「お客様」
 さて改まってこの少年が兵馬に向い、
「この裏の戸はあけないようにして下さい」
「よろしい」
「もし何か変ったことがあっても、今のところからお出になって、決してこの裏の戸をあけないようにして下さい」
と、ことさらに念を押すのがおかしいと思いましたけれども、兵馬は、
「念には及びませぬ」
 そこで刀、脇差をさしおくと、清澄の茂太郎がまだ物足らぬ顔で、
「この戸をあけると、怖《こわ》い化物《ばけもの》が出るんですよ、だから……」
 そこまで念を押さなければ、兵馬もさして気にも留めなかったが、
「化物が……」
「ええ、化物が出るかも知れませんから、あけないで下
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