ろしい祟《たた》りがありますから、刀はそのままにしてお置きなさいまし、その方がよろしうございます」
お雪は不思議なほど躍起《やっき》となりました。
「物は取りようじゃ、この二つの刀の鞘が誂《あつら》えたようにしっくり[#「しっくり」に傍点]と合い、目釘の穴までがピタリと合うのは、あいえんの証拠に違いない」
竜之助はお雪の一生懸命な忠告を取合わず、やすやすと中身を入れ替えて、再びぬぐいをかけました。お雪はなんともいえない情けない思いをしながら、その様子を見ていましたけれど、ただ一時の恐怖と、幻覚から醒《さ》めてみれば、あながち、それを押止める根拠を持たないところから、そのままで引上げました。
三十一
その日の夕方のことです。お雪は寺の後ろの井戸端で洗濯物を取入れていると、そこへ、疲れ果てた一人の若い旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]が来ました。
お雪には知らない人ですが、これが宇津木兵馬であります。
「少々御無心ですが、水を一ぱい頂かせて下さい」
「さあさあ、どうぞ」
お雪は快く井戸の水を汲み上げてやりました。
「このお茶碗で召上れ」
「有難うございます」
水を飲んで若いさむらい[#「さむらい」に傍点]は、さも元気がついたらしく、ホッと息をつきましたが、さて、再び動き出すにはあまりに疲れていると見えます。その痛々しい有様が、お雪をしてだまって見過すには忍びなからしめたと見え、
「どちらへおいでになりますか」
その問いには答えずに、
「ええと――この辺にしかるべき旅籠《はたご》はありますまいか」
「町へおいでになりますと」
お雪は返事と共に、町までさえ出で悩む若い旅人の疲れが気の毒でなりません。若い旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]もまた、宿をたずねるにはたずねたが、一足も進む気色《けしき》はなく、
「甚だ恐れ入りますが、今宵一晩、いずこの隅にでも御厄介になれますまいか」
「そうでございますねえ」
お雪は十二分の同情を以て、この旅の若いさむらい[#「さむらい」に傍点]を見て、
「むさくるしいところで、お厭《いと》いなくば……」
といわれて、若い旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、もう占めたという喜びを隠すことができません。
「雨露《うろ》をさえ凌《しの》がせていただけば……」
「お待ちくださいませ、ちょっと聞いて参りますから」
お雪は、この旅の若いさむらい[#「さむらい」に傍点]を泊めてやるつもりで、庫裡《くり》の方へ行ってしまいました。単純な同情だけではなく、この若い旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]が、たとえ全く知らない人にしてからが、どう間違っても、後にわざわいを残す人でないという印象が、そうさせたものに違いありません。しかしこの娘の人は同情しても、相談の相手が何というか知らん。この寺の住持が何というか知らん。
恵林寺の慢心和尚に叩き出された兵馬。ここまで飲まず食わずに来たのが、ここへ来て一杯の水にありついたが、その水を与えた主の心は温かい――水は甘かった。その井戸の釣瓶《つるべ》の水で手拭を湿しているところへ、お雪が戻って来て、
「あの、せっかくでございますが……」
若い旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、その言葉でハッとしたらしい。果して、この人は同情しても、寺の実権者がその同情を受入れないのか。
「はい」
「こっちの方はお客が泊っておりますから、本堂の方へお一人でお休み下さるならば……と申しますが、そのくらいならいくらもございませんから、わたくしが町の旅籠《はたご》まで御案内を致して差上げましょうか」
「いいえ……それで結構です」
と兵馬は、あらがうように言いました。
「淋しいところは厭《いと》いませぬ、が、なお申し上げておきませんければならぬことは、仔細《しさい》あって、私は今の身に一銭の蓄えというものがございませぬ、いずれ、御恩報じは致すつもりでございますが、それ故に……」
兵馬が口ごもっているのを、お雪は打消して、
「いいえ、その御心配には及びませぬ、ただ淋しいところで、それだけがお気の毒でございます――」
ともかくも兵馬は、足を洗って庫裡《くり》の炉辺《ろへん》へ通りました。もう夜分は火があっても悪くはない時分です。
「ずいぶんお疲れでございましょう」
お雪がいいますと、
「疲れました、不意に思い立って、不意に帰るものですから」
「江戸の方へお帰りでございますか」
「左様――江戸を出て、甲州の塩山にちょっと知合いがあるものですから、そこへ尋ねて行きましたが、その人に会えず、空《むな》しく立帰るところでございます」
「それはそれは」
お雪は、兵馬が何故に甲州へ来て、何故に帰るのだか知りません。兵馬もまたこれを尋ねられないのに、答える必要はないので
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