直って座蒲団の上にチャンと坐り、刀を抜いて拭いをかけておりますと、
 お雪が、
「お茶を召上れ」
「これは有難う」
「先生、その刀ですか、義姉《あね》があなたに差上げたのは」
「これではありません」
「今も、弁信さんがいやなことをいいました」
「弁信が……」
「あの方はよい方ですけれども、時々変なことをいい出すので困ります」
「勘がよすぎるのだ」
「でも、気になってたまりませんもの」
「何をいいました」
「お怒《おこ》りにならないように。弁信さんがいいますには、私が傍にいなければ、お雪ちゃんというものは、疾《と》うの昔にあの先生に殺されてしまっているのだと、こういいました。そういわれた時に、わたしはゾッとしました」
「でたらめをいう奴だ」
「なんぼなんでも、あんまりじゃありませんか。弁信さんは先生のことを、人さえ見れば殺したくなる悪人のように思っているんじゃないでしょうか。この間も……あなたの前で、あんなことをいい出して、わたしはお気の毒で、お気の毒でたまりませんでした」
 お雪はお茶をすすめるのも忘れて、竜之助の刀の下に戯《たわむ》れている。戯れているのではない、刀そのものの危ないことを知らないのです。無知と大胆とは、いつも隣り合っている。
「お雪ちゃん、これが、あなたの義姉《ねえ》さんから貰った刀です」
 竜之助は拭った刀を壁へ立てかけて、別に例の白鞘《しらさや》の一刀を取り出しました。
「そうですか」
 スルスルと拭いて見せた刀を、お雪は無邪気にのぞき込んでいると、竜之助が、
「比べてみたところが、実によいあんばい[#「あんばい」に傍点]に、元のそちらの刀の鞘へはま[#「はま」に傍点]るのです、目釘《めくぎ》の穴までが、ピタリと合うのは誂《あつら》えたようですから、少し手を入れて、中身を入れ替えてみようとしているところです」
「それは、ようござんしたね。それで、先生、どちらの刀がいい刀なのですか」
「それは無論、こっちの方が……義姉さんから貰ったのがいい刀です」
といって竜之助は、前と同じように拭いはじめました。
「ですけれども、刀には祟《たた》りがあるということですから、御用心をなさいまし」
「祟りのあるほどの刀は、いい刀なのだから、人によってはそれを好きます」
 拭い終った竜之助は、その刀を前と同じように壁へ――抜身のままで紙を枕にして、手さぐりに立てかける拍子に、どうした小手の狂いか、以前に立てかけてあった刀がカラカラと倒れました。それを引起して立て直そうとすると、今度は後ろに立てたのがスルスルと壁から横っ走りをはじめます。
「先生、わたしが立てかけて上げましょう」
 お雪が見兼ねて手を出すと、その手を追っかけるもののように、刀はお雪の方へスルスルと横っ走りをして来ましたから、
「おお怖《こわ》い」
 せっかく手出しをしたお雪が、恐れてその手を引込めると、竜之助は早くも一方を立て直して、一方を手に取り上げ、手さぐりで、その目釘を抜きにかかると見えます。
「お雪ちゃん、そこの火箸を、ちょっと貸して下さい」
「はい」
 目釘を押すための火箸を取って、お雪が竜之助の手に渡そうとする時、つい、着物の裾がからまって、用心しながらいま立てかけた刀を、カラカラとひっかけると、
「あれ、危ない――」
 面《かお》の色を変えたお雪の膝の上へ、心あるもののようにその刀が落ちかかりました。お雪はハッと飛びのくと、その煽《あお》りで、その刀がまた横に飛んで、ちょうど、目釘を押えている竜之助の方へ飛びかかったものですから、その柄《つか》で竜之助がそれを受け止めた形は、刀と刀とが絡《から》み合ったようです。
「先生、今のをごらんになりましたか」
 お雪は、真蒼《まっさお》な面《かお》の色になっていました。
「ああ、先生にはおわかりになりますまいが、今のはこの刀が、わたしに飛びついて、それからまたあの刀へ飛びついたのです。刀がいきていました」
 竜之助は頓着せず、二つの刀を押並べて、火箸のさきでその目釘を押し抜いて、今や、その中身の入替えにかかろうとするのを、お雪は唇の色まで変って、苦しそうに、
「お待ち下さいまし。先生、わたくしは、その刀は入替えをなさらない方がよいと思います、どうも今のことが不吉でございますもの……今、その刀がわたしの方へ飛びかかる時に、わたしの眼の前へ、ちらりと義姉《ねえ》さんの姿が浮びました。義姉さんが怖い目をして、およしといって、わたしを睨めた時に、この刀が、わたしに向って飛びついて来たように、わたしには思われてなりません。きっと、その刀は、その鞘に納まるのがいやで、こちらの刀は、自分の鞘へほかのものを入れるのがいやなんです、それに違いありません、そうとしきゃわたしには思われません。いやなことを無理になさると、きっと怖
前へ 次へ
全85ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング