はありませんかと。そうすると久助さんが、いろいろのお湯を教えてくれましたけれども、ほんとうに命がけで難病を癒そうとするならば、山は深いほどよく、そこに一冬籠るがよいと教えてくれました。つまり、そこで久助さんが、白骨のお湯……を名ざして詳しく教えてくれました」
「そうしてお雪ちゃん、あなたはなんですか、その山深い白骨のお湯へ、先生と、久助さんと、三人きりで、これから一冬を籠ろうという決心なんですね」
「ええ、今から出かけて行って、そうして雪の山の中に冬を過ごして、来春、暖かくなりはじめた時分に――その時、あの先生のお目も癒り、わたしも、少し弱いのですから、すっかり身体が癒ってしまえば、こんな結構なことはないじゃありませんか。第一、死んだ義姉《あね》がどのくらい喜ぶか知れません」
「お雪ちゃん、あなたはほんとうにまだ子供ですね」
「何をいってるの弁信さん、急に人をからかい[#「からかい」に傍点]出して」
「お雪ちゃん、あなたは幾つにおなりなさいますか」
「ほんとにおかしな弁信さん……」
「私は、お雪ちゃん、あなたはもう年頃の娘さんだとばっかり思っておりますのに、そういうことをおっしゃるのだから驚いてしまいます。信濃の国の白骨のお湯とやらが良いお湯と聞いたばっかりで、その間の道中がどのくらい難渋だか、そのことをあなたは考えておいでになりません。またその難渋の道中をつれだって行く人たちが、善い人か、悪い人か、それも考えてはおいでになりません――私がここでうちあけて申し上げますと、あなたはその白骨のお湯へおいでになった後か、その途中かで、キッと殺されてしまいます、いきては帰ることができません」
「まあ――」
「お雪ちゃん、病《や》んでいる人を癒す白骨《はっこつ》のお湯は、またいきた人を白骨としてかえす力のあることを御存じはありますまい」
「いやなことを――せっかく思い立ったものを、ケチ[#「ケチ」に傍点]をつけるものではありません、それもほかのことと違って」
「いいえ、決してケチ[#「ケチ」に傍点]をつけるのではございません。お雪ちゃん、あなたは義姉《ねえ》さんの志をついで、あの先生に再び日の目を見せて上げたい、それが死んだ義姉さんへの供養《くよう》と思っておいでになる志はよくわかりますけれども、それをする時には、あなたはやはり義姉さんと同じ運命を覚悟しなければなりませんよ」
「何ですって、弁信さん、あなたのおっしゃることがわかりません」
「私にはよくわかります。お雪ちゃん、このごろあなたは、あの先生を好きになっているのでしょう、自分では気がつかないながら、最初のうちは気の置ける、気味の悪い人だと思っていた人を、このごろになっては、だんだん惹《ひ》きつけられて、好きになってゆく心持が、目に見るように私にはわかるのです。それですからあなたは、白骨のお湯へ殺されに行くのを自分で知らないで、自分で楽しみにしているのです」
「弁信さん、そういうことをいってはいけません……あの方のお目を明るくしてあげたいというのが義姉さんの志なんですもの、遺言同様の願いじゃありませんか。わたしがあの方を、好くの好かないのなんて」
 お雪はここで、真赤になっていいわけを試みました。弁信はそれを肯《うけが》おうともしませんで、
「ああ――私が傍にいなければ、あなたという人は、もう疾《と》うの昔に殺されてしまっていたのです」
 弁信はこういって、深い嘆息を洩らしました。
「弁信さん、もう、そういう話は止めにしましょう、あなたは、いつぞやもそんなことをいいました、義姉《あね》を殺したのはあの先生だといい出して、わたしはヒヤヒヤしてしまいました」
「お雪ちゃん、わからないのですか、私のいっていることが」
「もう、止めて下さい、殺すとか、殺されるとか、そういうことを、わたしは聞くのはいやでございます」
 お雪が座に堪えないほどの心持を、言葉の調子で見て取った弁信は、穏かに、
「悪うございました、ついまた口が出過ぎました。では、左様な忌《いま》わしい言葉は使いませんが、それでも、言いかけた心持は、言わないではおられないのが私の気性でございます……ただもう一言《ひとこと》いわせて下さい。心あっても、なくても、あなたはあの先生を好きになってはいけません、好きになると殺されます……どうも失礼を致しました」
といって弁信法師は、いわん方なき悲痛の色を浮べて、そこそこに辞してこの室を立ち出でました。
 急に暗い心になったお雪は、また気を取り直して、湯気の立った鉄瓶から、お盆の上の急須《きゅうす》へお湯を注《つ》いで、別の襖《ふすま》をあけて徐《しず》かにこの部屋を立ち出でました。
 お雪がお盆の上へ急須を載せて持って来た部屋は、机竜之助の籠《こも》っている部屋です。竜之助はこの時、起き
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