寺では、お喋《しゃべ》り坊主の弁信が、仏前の礼拝を済まして廊下を戻って来ると、お針をしていた雪ちゃんが、
「弁信さん」
「え」
「お入りなさいな、お茶を入れますから」
「有難うございます」
そこで雪ちゃんは、縫物を片づけて、火鉢の鉄瓶に手を当ててみて、炭をかき立てると、弁信はもうピタリと座敷へ着座をしてしまいました。
「茂ちゃんはいませんか」
お雪がいうと、
「いいえ、あの子はまた山遊びなんでございましょう」
と弁信が答える。お雪ちゃんは早くもお茶をいれて、お盆の上へお煎餅《せんべい》を盛り上げて弁信の前へ出し、
「お煎餅を一つお上りなさいな」
「へえ、有難うございます、遠慮なくいただきますでございます」
弁信はおしいただいて、お茶を呑みます。
「さあ」
お雪ちゃんは、お煎餅を二枚はさんで弁信の掌《て》の上にのせてやり、
「甘いのがようござんすか、辛《から》いのがお好きですか」
「ドチラでもよろしうございます、結構でございます、そうしておいて下されば、わたくしが自由に頂きますから」
「茂ちゃんも来るといいんですがね、呼んでみましょうか」
「いいえ、あの子は人間と遊ぶよりは、山で兎や蛇と遊ぶのが好きなんですから、ほうっておきましょう」
「そうですか」
お雪は弁信にお茶と煎餅を与えて、自分はまたお針仕事にとりかかると、
「お雪ちゃん、御精が出ますねえ」
「いいえ」
「何を縫っていらっしゃるの」
「何でもありません、冬物の仕度を少しばかり……」
「そうですか、お手廻しがようございますねえ」
「急に思い立ったものですから」
「え、何を思い立ったのですか」
「弁信さん」
お雪は、ちょっと針の手を休めて、弁信の面《かお》をながめる。
「何でございます」
「あなたは、人の心持が前以てわかるんですってね」
「何をおっしゃるのです、それはわかることもあれば、わからないこともありますよ。あたりまえでしょう。私は人様のように、目でもって様子を見ることができませんから、勘でおおよそのところを察してみるのです。それが当ることもあれば、当らないこともあるじゃありませんか」
「ですけれども、弁信さん、あなたは人並みの目の見えない方より、ズット勘がいいんですね。その証拠には、たった今だってそうですよ」
「たった今が、どうか致しましたか」
「今わたしが、急に思い立ったといったでしょう、その時に、あなたは、え、何を思い立ったのですか、と聞き直しましたね、それが、わたしの胸へハッと響きましたよ」
「それは、どういうわけですか」
「いいえ、そのわけをあなたに聞いてみたいのですよ」
「私は、そう思ったから、そう聞いてみただけなんですが……」
「ね、弁信さん、わたしが急に思い立ったといったのと、あなたがお手廻しがようございますねといったのは、別々の心持でしたねえ」
「そうですね、今から冬物の仕度をなさるのはお手廻しのよい方で、急に思い立ったとおっしゃるのとは調子が合わないようですから、何の気もなしに私は、何を思い立ったのですか、とお聞き申してみたのです」
「弁信さん、聞いて下さい、わたしは、こういうことを思い立っているんですよ。あのね、盲目《めくら》の先生を湯治《とうじ》に連れて行って上げたいと、そう思い立ったのが先で、それから冬物の仕度にとりかかりましたのです」
「え、あの先生を湯治にですって?」
「そうですよ」
「どこへですか、どこへ湯治にお連れなさるというのですか」
「それはずいぶん遠いところですけれども――」
「遠いところ――なるほど、この近辺には温泉というものは聞きませんね」
「ええ、武蔵の国にも、甲斐《かい》の国にも、温泉らしい温泉はございません」
「そうです、その代り隣国の信濃《しなの》と相模《さがみ》には、たくさんの温泉がございます」
「弁信さん、わたしは先生を、信州のお湯へ連れて行って上げたいと思っているのです」
「信州はドチラのお湯ですか」
「信州もズット奥の方なんですよ」
「信州の奥――信州はこの甲斐の国よりもいっそう山が遠く、日本の国の天井になっていると聞きましたが、その信州の奥?」
「ええ、信州もズット奥、飛騨《ひだ》の国の境の方になるのだそうです」
「飛騨の国の境ですか」
「そうです、そこに白骨《はっこつ》のお湯というお湯が湧いているんだそうです。そこへ入りますと、難病がみんな癒《なお》るのだと久助さんが教えてくれました。一冬そこに籠《こも》っていれば、どんな難病も癒ってしまいますそうで、丈夫な身体の人が入れば、一生涯無病で暮らせるそうでございます」
「ははあ、久助さんが、そういうことを教えたものだから、お雪ちゃん、あなたは直ぐその気におなんなすったのですか」
「そうではありません、わたしが久助さんに尋ねたのです、どこぞよい湯治場
前へ
次へ
全85ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング