その面が二つに分れて、左右へ流れて行く。それを見ると、昏々《こんこん》としていよいよ眠くなって幽冥の境へ誘われる。
 ハッと途切れたのは、駕籠屋が峠の道で物につまずいたのであろう。それからは兵馬の眼前に、
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「悪女大姉」
「悪女大姉」
「悪女大姉」
「悪女大姉」
[#ここで字下げ終わり]
が、後から後へと流れて行く。やはり兵馬の眼前へ来て、その文字が二つに流れ去る。真蒼《まっさお》な面と悪女大姉とが、白蝋のようにもつれ[#「もつれ」に傍点]て火焔の如くに飛ぶ。その真蒼な面が、ある時は想像の机竜之助の如く、或る時は一撃に打たれて倒れた兄の文之丞の如く、悪女大姉は文字の如く、絵の如く、糸の如く、幻《まぼろし》の如く、消えては現われ、現われては消え、からみつき、ほぐれ出し、物に触れて駕籠が烈しく揺れるたびに、いったん途切れてまた現われる。
 夜中のある時、駕籠があるところへ、ドッと置かれたと思うと、幻が消えて眼前に現われた大入道。ブン廻しで描いたような、まんまるい、直径六尺もあろう……という顔。オホホホホと笑って眠るが如く、笑うが如く、半眼でながめているのは慢心和尚の面。
 通しであったか、宿次ぎであったか、それさえもわからず、ようやく甲斐国東山梨、松里村の名刹《めいさつ》恵林寺《えりんじ》の門前に着いた宇津木兵馬。
 へとへとに疲れて、慢心和尚に面会を申し入れると、無事に入室を許されるには許されたが、
「何しにおじゃった」
 例のブン廻しで書いたような真円《まんまる》い面《おもて》に、拳を入れて余りある大きな口、眠っているような細い目の中からチラリと白い光を見せられた時は、いい気持がしませんでした。
「実は……」
 兵馬が何かいい出そうとすると、
「どうだい、宇津木、敵討商売《かたきうちしょうばい》は儲《もう》かるか」
「儲かりません」
 ぜひなく兵馬もこう答えてしまいますと、
「儲からない? 儲からない商売を、いつまでもやっている奴があるか」
といって慢心和尚が居丈高《いたけだか》に叱ると兵馬は、
「それでも……」
「何がそれでもだ」
 慢心和尚は頭からガミガミと怒鳴《どな》りつけて、
「何がそれでもだ、お前の面《つら》を見ると、いつでも敵討《かたきうち》が丸出しで、おれは昔から大嫌いなのだ、敵討というやつは全くおれの虫が好かない」
「いいえ、左様なわけではございませんが……」
「そういうわけでなければ女のことだろう。敵をたずねて歩く奴と、女の尻を追い廻す奴ほど、気の利《き》かない奴はないものじゃ」
「全くその通りでございます、全く私は腑甲斐のない、意気地のない、気の利かない奴の骨頂なのでございます……」
「何、何といった……腑甲斐のない、意気地のない、気の利かない奴の骨頂だと自分で知ったら、ナゼ早くくたばって[#「くたばって」に傍点]しまわないのだ、この娑婆《しゃば》ふさげの馬鹿野郎」
と言ったかと思うと慢心和尚は、いきなり手で、兵馬の横面《よこづら》をピシャリと打ちました。
「あッ!」
 兵馬としては、その掌《てのひら》を避ければ避けられたのかも知れない。或いはまた避ける隙も、余裕もないほどに、和尚の手が早かったのかも知れない。ともかく、ピシャリと一つ打たれてしまいました。
「ざまを見ろ!」
「恐れ入りました」
「何が恐れ入った」
「何もかも、もう駄目です」
「何が駄目だ、この馬鹿野郎」
 慢心和尚はヒドク怒っていると見えて、この悪罵と共に、三たび、拳を上げて、兵馬の首をピシャリと打ちました。兵馬は脆《もろ》くも打たれたままで、悄《しお》れ返っていると、立ちはだかった慢心和尚が、
「万能余りあって一心足らずというのが貴様のことだ、馬鹿なら馬鹿で始末がいいが、なまじい腕の出来るつもりが癪にさわる、この猪口才《ちょこざい》め」
といって慢心和尚は、続けさまに兵馬を打って、打って、打ち据《す》えました。
「恐れ入りました」
「恐れ入ることはないわい」
 すこしの仮借《かしゃく》もなく、打って打ち据えて、とうとう兵馬をそこへ打ち倒してしまいました。
「和尚なればこそ……」
 打ち倒されながら兵馬が、やっとこれだけのことをいうと、慢心和尚は透《す》かさず、
「生意気千万、何が和尚なればこそだ、和尚なればこそどうしたのだ」
 打ち倒された上を更に滅多打ち。兵馬の髪は乱れる、刀、脇差は飛ぶ。
「和尚なればこそ、このお慈悲……」
「ナニ、お慈悲だ? もっと擲《なぐ》られたいのか、この骨無しめが!」
といって、打ち倒した兵馬を突き飛ばすと、慢心和尚は足をあげて兵馬を蹴って蹴りつけて、座敷の中を蹴ころがして、縁へ蹴落し、縁にひっかかっている兵馬を、地面の上へ蹴落してしまいました。

         三十

 上野原の月見
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