いたか自分でもわからないが、突然大きな声をして、
「おれは、もう駄目だ」
と叫びました。
 その声に驚かされた通行人が、たちどまって提灯《ちょうちん》をさしつけ、
「何でしょう」
「たしかお濠端で、人の声がしましたぜ」
「身投げではありますまいか」
 遠くから提灯をさしつけ、
「モシモシ」
 返事がありません。
「そこに誰かいるんですか」
 なお返事がないので、怖《おそ》る怖る近寄って来て、
「モシ、短気なことをなすっちゃいけませんぜ」
「馬鹿!」
 兵馬が、一喝《いっかつ》したので、その二人は、わっ! とひっくり返って逃げてしまいました。
「身投げと間違えられた」
 兵馬は苦笑いしながら四辺《あたり》を見廻すと、四辺は真暗で、たしかに自分は濠端に立って呻《うめ》いている。
「なるほど、この腑甲斐《ふがい》ない自分というものの持って行き場は、身投げあたりが相当だろう、腹を切るという代物《しろもの》ではない」
 自分で自分を嘲っているところへ、鍋焼うどん[#「うどん」に傍点]が来る。
「おい、うどん[#「うどん」に傍点]屋」
「はい、はい」
 兵馬は、うどん[#「うどん」に傍点]屋を呼び留めて、熱いうどんを二杯食べて、銭を抛《ほう》り出し、
「ここは、どこだ」
「へえ、ここはお濠端《ほりばた》でございます」
「お濠端はわかっているが、お濠端のどこだ」
「へえ、ワラ店《だな》の河岸《かし》でございます」
「ワラ店の河岸?」
「エエ、左様でございます、どうも有難うございました」
 うどん[#「うどん」に傍点]屋が逃げるように行ってしまったのは、何か兵馬の権幕におそれを抱いたものと見えます。
「ところで、今は何時《なんどき》だ」
 兵馬は、それを聞きはぐって、その濠端について、ずんずんと上手《かみて》へ歩き出しました。かなり歩いても濠端には相違ない。
「やい、気をつけやがれ」
 出合頭《であいがしら》に突当ろうとしたのは、やはり二人づれの酔どれ、どこぞの部屋の渡《わた》り仲間《ちゅうげん》と見える。よくない相手にとっつかまった兵馬は、
「馬鹿め」
 その利腕《ききうで》取って、やにわに濠の中へほうり込んで、さっと走り出しました。あとで、仲間どもが天地のひっくり返るほど喚《わめ》き出したのも聞捨てに――
 なお一目散《いちもくさん》に濠端を急いで行くと往来止め。
「ちぇッ」
 行き詰って、むしろ、この往来止めの制札を打砕いて、掘りっぱなしの溝《どぶ》の中を泳いで、溝鼠《どぶねずみ》のように向うへ這《は》い上ったら痛快だろう、と思っただけで、往来止めの制札の横の方に置き捨てられた大きな切石の一端に、腰を卸してしまう。いいあんばいに後ろは背をもたせるように出来ている柳の樹。兵馬は、それに凭《よ》りかかろうとすると、ヒヤリと頭を撫でるものがある。手をあげてさぐると、いやに生温《なまぬる》いものが指先にさわる。
「あッ」
 兵馬は手をはなして、よく見るとまさしく首くくりだ。
「ええい!」
 再び手を出して、そのブラ下がっている足に触れてみると、生温いと思ったのは最初の瞬間、冷えきって絶命している。
「ちぇッ」
 さきには自分が身投げと間違えられる、今は首くくりに頭を撫でられる、兵馬の腹はむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]です。
 廻り道をして、やはり一方の濠端を歩む。折々、拍子木と按摩の笛が耳に入る。
「旦那、駕籠《かご》はいかが」
 とある柳の木の下、これは辻待ちの駕籠屋ですから、喫驚《びっくり》するには当りません。
「旦那、いかがです、大門《おおもん》までおともを致しやしょう、二朱やって下さい、二朱」
 それを、うるさい[#「うるさい」に傍点]と振切ろうとした兵馬が、考え直したと見えて立ちどまり、
「駕籠屋、駕籠屋」
「へえ」
「駕籠を持って来い」
「へえ、畏《かしこ》まりました」
 担《かつ》ぎ出した四つ手駕籠。拾い物をしたように、二人の駕籠屋は大喜び。兵馬は何と思ってか、その駕籠に飛び乗ると、駕籠屋は威勢よく走り出したが、その行先を知らない。行先を知らないで担ぐ奴も担ぐ奴、担がれる奴も担がれる奴。
 しかし、駕籠屋は、もういっぱし心得ているつもりらしい。
「駕籠屋、駕籠屋」
 暫くあって中から言葉をかけた兵馬。
「相棒、旦那がお呼びにならあ」
「何でございます、旦那」
「お前たちは、何方《どっち》へこの駕籠を持って行くつもりじゃ」
「冗談じゃございません、先刻《さっき》お約束を致しました通り」
「まだ約束はしていない」
「御冗談をおっしゃらないように。日本橋並みで大門まで二朱は大勉強でございますぜ、旦那」
「それはお前たちのひとりぎめだ、わしは甲州へ行きたいのだ」
「え?」
「どうじゃ、甲州までこの駕籠はやってもらえないか」
「い
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