ず気になるのは、その首に巻きつけられた、五寸ほどに切った竹筒を、麻の縄で両方からムクの首に結《ゆわ》いつけてあるもの。駒井は、その竹筒を外して見ると、中に一通の書状、手は女で文言《もんごん》の意味は、
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「駒井能登守様。
殿様は今、どちらにおいでなさるか存じませんが、私はお君様に代って、殿様に悲しいお便りを申し上げなければなりません。
この十三日に、お君様は亡くなりました。お君様は亡くなりましたけれども、若様はお丈夫でございます。お君様のくれぐれの遺言もございますから、このことをどうぞして殿様に一言《ひとこと》お知らせを致したいと苦心致しましたが、私共の手ではどうしてもわかりません。ふと思いつきましたのはこのムクのことでございます。ムクは強い犬で、りこうな犬ですから、ムクを放してやれば、殿様にこのことをお伝えすることができるかと思いまして、このように取計らいましたのは、本所相生町の御老女様の屋敷にいる松でございます。
若様のお名は能登守の一字を戴いて『登』様と仮りに私が申し上げていることをお許し下さいませ――」
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その手紙を持ったままで駒井甚三郎は、自分の部屋へ入ってしまいました。そうして、寝台の上に身を横たえて、頭から毛布をかぶって枕を上げません。程経て金椎《キンツイ》が、その扉《ドア》を押してみたけれどもあかない、叩いてみたけれども返事がありません。
常に、ことわられていることは、研究に熱心の際は外物のさわりがある。扉に錠《じょう》を卸した時には、軽く叩いてみて返事がなければ入るなと、こう命ぜられてあるから、金椎はその掟《おきて》を守って引返しました。
引返して見ると、使命を帯びて来た巨犬《おおいぬ》は、神妙に以前のところに控えている。金椎は心得て、それに飲物と食物とを与えました。
その日一日、ついに駒井甚三郎はその部屋を出でませんでした。こういうことは必ずしも例のないことではない。不眠不休で働いた揚句、二日二晩も寝通したことさえ以前にあるのだから、金椎はそれを妨げに行こうともしなかったが、夜に入っては、さすがに不安でした。
以前の巨犬は、何か返事の使命を待つものの如く、また使命の重きに悩むものの如く、首垂《うなだ》れて、おとなしく控えている。
「ワンワン、こちらへおいで」
金椎は犬を導いて、自分の室の一隅に入れ、犬と食事を共にし、祈りを共にして、その夜の眠りに就きました。
翌朝、例刻にめざめて、例の通りまず主人の部屋を訪れて見ると、昨日は固く鎖《とざ》された扉《ドア》が、今日は押せばすぐにあきました。金椎は、
「お早うございます」
室内に入って見ると、机にも、腰掛にも主人の姿を見ず、寝台の上はもぬけの殻《から》で、人の影はありません。机の上を見ると、常用の大型のノートに一枚の紙が物いいたげにハサまれているのを見る。金椎は心得て、その紙片を取って見ると、主人の筆でサラサラと、
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「金椎ヨ、余ハ急ニ感ズルコトアリ、今朝ヨリ暫時ノ旅行ヲ試ミントス。行先ハ江戸、滞留及ビ往復ノ日数ヲ加ヘテ多分十日以内ナルベシ。留守中ノ事ヨロシク頼ム。昨日、使ニ来リシ犬ハ、最モ愛スベキ忠犬ナレバ、ヨクイタハリ、カヘルトモ、留マルトモ、犬ノ意志ニ任セテサシツカヘナシ。
二十一日午前一時[#地から2字上げ]駒井」
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それを読んで金椎は、まだ充分の納得《なっとく》がゆかないながら、ひとまず安心しました。そこで、紙片をしまい、ノートの開かれたところを見ると、まだインキのあとの生々しい文字が目にうつる。この置手紙と前後して、主人が筆を走らせたのに相違ない。
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「死ハ万事ノ終リカ。
彼ノ女ノ罪ハ祖先ノ罪ナリ。
駒井ノ家ノ系統ヲタヅヌルニ、清和源氏ニ出ヅルモノノ如シ――然レドモ――彼ノ女ニ対スル余ノ愛ガ彼ノ女ヲ殺シ、彼ノ女ノ愛ガマタ余ノ生涯ヲ一変セシメタリトヤイハム。
何故ニ余ハ最後マデ彼ノ女ヲ愛シ能ハザリシカ。彼ノ女ハ何故ニ最後マデ余ニ愛セラレザリシカ。
金椎ノ談ニヨレバ、救世主ハ大工ノ子ニシテ――耶蘇ノ教フルトコロニヨレバ、娼婦、税吏、異邦人、姦淫セル女等ガ却ツテ、驕慢ナル権者、偽者ナル智者、学者ヨリ光栄アル壇上ニ置カルルモノノ如シ。
嗚呼、彼ノ女ノ罪ハ祖先ノ罪ニアラズ、彼ノ女ノ死ハ彼ノ女ノ罪ニアラズ――彼ノ女ヲ殺シタルハ余ナリ、駒井能登守ナリ。
余ハ惑乱ス」
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記号と、数量と、線と、画とで、書き充たされていたノートが、この頁から一変した感傷の文字で、しどろもどろに塗られていました。
二十九
お濠端《ほりばた》の柳の木に凭《もた》れた宇津木兵馬は、どのぐらいの間、何事を考えて
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