たけれど、別に志すところのある駒井はその話には乗らずに、同じ船の一隅でマドロスの服を着けて、帆柱の蔭で福音書《ふくいんしょ》を繙《ひもと》いている異様な支那少年の挙動に目を留めました。物を問いかけてみて、この少年が聾《つんぼ》であることを知り、筆談によって、その名の「金椎《キンツイ》」であることを知り、なお筆談を進めて行って、ウイリアム先生というのから受洗《じゅせん》した耶蘇《ヤソ》の信者であることを知り、本来の支那語と、多少の英語と日本語とを解することを知り、それを奇とするの念から、大六に請《こ》うて貰い受け、自分の助手として使っているわけです。
駒井と同居することになって後のこの少年の挙動は、船の時と同じことで、命ぜられた仕事の合間には、手ずれきった一巻の福音書を離すことなく、繰り返し繰り返ししている。日本の武士が刀剣に愛着すると同じように、この一巻の福音書に打込んでいる少年の挙動を、駒井は笑いながら見ていました。
「私が耶蘇になったといって、私を憎んで殺そうとしましたから、私、海を泳いで日本の船へ逃げ込んで、ようやく助かりました、その時、海の水で本がこの通りいたんでしまいました」
手ずれきった革表紙を繙いて、頁のしみだらけになったところを駒井に見せて金椎が説明する。
明けても暮れても一巻の福音書にうちこんでいる体《てい》を見て、駒井はそぞろに微笑を禁ずることができなかったけれども、その微笑は冷笑ではありません。
別に、駒井自身は、科学者としての立派な見識を持っている。その見識によって迷信屋を憐れむだけの雅量をも備えているつもりである。あらゆる信心は、みな迷信の一種に過ぎないものとの観察を持っている。法華経を読めといわれて読んでみたこともあるし、耶蘇の聖書も、その以前、一通りは頁を翻《ひるが》えしてみたこともあるにはあるが、全然、空想と誇張の産物で、現実を救うに夢を以てするようなもの――要するに、過去と無智とが産んだ正直な空想の産物と見ておりました。
物と力を極度に利用する西洋の学問に触れてから、一層その念が強くなって、神仏の信仰は文明と共に消滅すべきもの、消滅すべからざるまでも識者の問題にはならないはずのものと信じていたところ、その西洋諸国が一斉に、耶蘇というエタイの知れぬ神様の生誕を紀元とするという矛盾に、なんとなく、足許から鳥が立った思いです。
駒井甚三郎が、耶蘇の教えを、もう少しまじめに研究してみようとの心を起したのは、この時からはじまります。
翌朝、例によって金椎の給仕で――この少年は支那料理のほかに、多少西洋料理の心得もあります――朝餉《あさげ》の膳に向うと、造船小屋の方でしきりに犬の吠える声。造船小屋には常に二頭の犬を飼って置いて、駒井は警戒と遊猟との用にあてているが、滅多にはない外来客がある時は、まずこの犬が吠え出しますから、隔たった番所にいて、駒井は犬の声によってまず、珍客のこの里へ訪れたことを知るのであります。
今日は早朝から珍客、箸を取りながら窓の外をながめると、激しく吠えていた犬の声が、急に弱音を立てて逃避するもののように聞えます。最初には珍客に向っての警戒と威嚇の調子で吠えていたのが、急に恐怖の調子に変ってきましたから、駒井は「敵が来たな」と思いました。敵というのは自分に対する敵ではない、犬共にとっての強敵が現われたのだということを、駒井は経験の上から覚《さと》って、直ちに他郷から彼等の同類の強敵が、ここへ入り込んだのだなと、箸を上げながら外を見ると、まもなく、二頭の飼犬が、後になり先になり、或いは吠え、或いは唸り、見慣れない一頭の巨犬《おおいぬ》を遠巻きにして、こちらへ進んで来るのを見受けます。
食事中、駒井はこの窓外の物々しい風景を興味を以てながめました。見慣れない一頭の犬は、ほとんど小牛を見るほどに大きく、逞《たくま》しく、真黒な犬で、急ぎ足で、まさしく自分たちの番所の方へ進んで来るのに、二頭の番犬は、それを、ひたすらに恐怖しながらも、しかも自分の職責を怠《おこた》るまいと、引きずられて来る有様です。
「ははあ、大きな犬がやって来たな」
件《くだん》の大犬は、ほとんど駒井の見ている窓下まで近づいて来た時に、駒井はその犬の首に何物かが巻きついていることを知るとともに、その犬がどこかで見たことのある……と思った瞬間に叫びました。
「ムク」
おお、これはムクだ。甲府勤番支配であった時、わすれもせぬお君の愛犬。その人にも、この犬にも、無限の思い出がなければならない。それと知るや、駒井は箸を捨てて立ち上りました。
「ムク」
犬は駒井の姿を見、その声を聞くと共に、勇みをなして飛んで来る。駒井は縁先へ出てそれを迎える。
「ムク、お前はどうしてここへ来た」
あやしみ、喜びながらもま
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