と記《しる》すと、少年は頷《うなず》いて、今まで繙《ひもと》いていた一巻の冊子をポケットの中に納めながら、椅子を立ち上ります。
 その時に、駒井は同じ紙の一端にペンを走らせて、「ソノ本ヲ少シ貸シナサイ」――ポケットの中に納めかけた一巻の書を、少年はぜひなく引き出して駒井の前に提出すると、それを受取った駒井は、
「有難う」
 これは言葉で挨拶する。少年はそのまま勝手元へ行ってしまい、同時に駒井もその部屋を立って自分の部屋へ帰って、少年の手から借りて来た書物を二三頁読み返していると、以前の少年が温かい紅茶を捧げてやって来ました。
「君もそこへ坐り給え」
 これも同じく口でいって、椅子の一つを少年に指さし示すと、卓《テーブル》の上に紅茶をさしおいた少年は、心得て椅子に腰を卸《おろ》しました。つまり二人はここで相対坐《あいたいざ》の形となりました。
「君も一つ」
 紅茶の一杯を少年に与えて、自分はその一杯を啜《すす》りながら、この少年を相手に閑談を試みんとする。少年は、すすめられるままに推戴《おしいただ》いて、その紅茶の一杯に口を触れ、神妙に主人の眼を見ていると、駒井甚三郎は以前の一巻の書物を取り出して、左の片手に持ち、右の手は鉛筆を取って卓の上のノートに置くと、少年はその鉛筆に向って熱心に眼を注ぎます。その時、駒井は鉛筆をノートの上に走らせて、
「基督《キリスト》ハ何国《どこ》ノ人?」
と書き記すと少年は眼をすまして、
「ユダヤいう国、ベツレヘムいうところでお生れになりました」
 これは訛《なま》りのある日本語です。駒井は続いて紙の上に、
「生レタノハ何年ホド昔」
「千八百――年、西洋の国では、その年が年号の初めです」
「ソレデハ基督ハ西洋ノ王様カ」
「いいえ」
「ソレデハ猶太《ユダヤ》ノ王様カ」
「いいえ」
「ソレデハ基督ハ何者ノ子ダ」
「大工さんの子であります」
「大工ノ子。ソレデハ西洋デハ、大工ノ子ノ生レタ年ヲ、年号ノ初メニスルノカ」
「左様でございます」
「基督トイウ人ハ、ソンナニ豪《えら》イ大工デアッタノカ」
「大工さんの子としてお生れになりましたけれども、基督様は救世主でございました、神様の一人子でございました」
「神様ノ一人子トハ?」
「神様が人間の罪をお憐《あわれ》みになって、その一人子を天からお降《くだ》しになって、人間の罪の贖《あがな》いをなされました。それ故、基督様は十字架につけられて、人間の罪の代りに殺されておしまいになりました救世主でございます。この救世主によらなければ、人間の罪は救われませぬ。救世主のお生れになった年ですから、この世の年号の初めとするのがあたりまえでございます」
 駒井が鉛筆で問うことを、少年は口で明瞭に答えるところを見ると、この少年の耳は用を為さず、口だけが自由を有する少年、つまり唖《おし》ではないが、聾《つんぼ》でありました。
 駒井は次に何を問わんかとして、鉛筆を控えて、その問い方に窮したのです。そのころ第一流の新知識としての駒井が、西洋諸国がことごとく耶蘇《ヤソ》紀元を用いていることを、事新しくこの少年に向って問わねばならぬ必要はない。といって、知っているようで知らないのは自分の知識である。いちいち明瞭に答えられてみると、閑談のつもりで相手にしていた相手から、かえって自分が苦しめられるような結果になる――つまり、赫々《かくかく》たる功業もなく、帝王の家にも生れなかった、大工の子の生れた時から、西洋の歴史が始まるという、この単純な事実の解釈が、どうしても駒井の頭で消化しきれなくなったのです。
 駒井甚三郎が金椎《キンツイ》を手許に置くようになった因縁をいえば、過ぐる月、駒井はひとりで鳥銃を荷《にな》って、房州の山々をめぐり、はしなく清澄の裏山へ出て、そこで一羽の雉《きじ》を撃ちとめたところから、寺の坊主の怒りを買い、烈しく責められてもてあましているところへ、山下《さんか》の鴨川出身の大六の主人が参詣に来合わせて、駒井のために謝罪してことなくすんで後、駒井は大六の持船天神丸に同乗して、小湊《こみなと》からこちらへ送り届けられたことがあります。その時の船の中で、はしなく眼に留まったのが、右の支那少年の金椎でありました。
 大六というのは、房州鴨川の町の出身で、最初日本橋富沢町の大又という質屋へ奉公し、後、日本橋新泉町に一本立ちの質屋を出して大黒屋六兵衛と名乗り、ようやく発展して西洋織物生糸貿易にまで手を延ばし、ついに三井、三野村、井善、大六と並び称せらるるほどの豪商となり、文久三年、伊藤俊輔、井上聞多、井上勝、山尾庸三らの洋行には、この人の力|与《あずか》って多きに居るという話です。
 大六は、当時失意の境遇にあるこの人材、駒井能登守を自分の顧問に引きつけたならば、大した手柄だと思いまし
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