ぎないし、詩人でない駒井は、「そぞろに覚ゆ蒼茫万古《そうぼうばんこ》の意、遠く荒煙落日の間《かん》より来《きた》る」と歌うことも知らないから、
「おれは今、何を憂えているのだろう、何が今のわが身にとって、この憂いの心をもたらす所以《ゆえん》となっているのだ、わからない」
人間と交渉を断って、科学と建造に他目《わきめ》もふらぬ今の生涯には、過去は知らないが、少なくとも今の生涯には、自分として多くの満足を見出せばとて、悔いを残してはいないはずだ。悔いのないところに憂いのあるべきはずはなかろう。今、不意にこうして骨髄をゆすりはじめた憂愁の心は、その出づるところがわからない。
ただ一つ、ここへ来て以来、時あってか駒井の心を憂えしむるものは、最初につれて来た船大工の清吉の死があるばかりだ。無口で朴直《ぼくちょく》なあの男、寝食を共にしていたあの男の行方《ゆくえ》が、今以て不明である――女軽業のお角という女を平沙《ひらさ》の浦《うら》から救い出して、ここの生活に一点の色彩を加え出したと同時に、清吉の行方が不明になった。
その事が、時あって駒井甚三郎の心を、いたく曇らすのだが、今宵の淋しさはそれとはまた違う。
人間のたまらない淋しい心は、その拠《よ》るところから切り離された瞬間に起る。その魂が暫し足場を失って、無限の空間へ抛《ほう》り出された時に起る悲鳴が、即ち淋しい心である。よしそれほどでないにしても、憂悶は詩人のことで、悔恨は求道者《ぐどうしゃ》の段階で、現実と未来に執着の強い科学者が、瞬間に起伏する感情の波に揺《ゆす》ぶられるのは恥辱である。
駒井甚三郎は、自覚しないうちに、そういうふうに感情を軽蔑したがる癖がないとは言えない。今、自分の心のうちに起っている骨髄に徹《とお》る淋しい心。その湧いて出づるところをたずねて茫然として何の当りもつかない。地震と海嘯《つなみ》は人間に予告を与えずして来るが、ただ人間がその予告を覚知するまでに進歩していない分のことで、地殻の欠陥がおのずから、地の表面へそういう結果をもたらすに過ぎない、といったように、駒井甚三郎は、おのずから湧き起った心をよそ[#「よそ」に傍点]からながめて、批判の態度を取ろうとする。
心の屈托を医するためには、駒井はいつも遠く深く海をながめるのを例とする。海をながめているうちに、この人の頭に湧き起る感情は、未来と前途というところから与えられる爽快な気分です。それと共に、現在の「船を造る」という仕事が、勢いづけられて、すべての過去と現在とを圧倒してしまうのを常とする。わが手で、わが船を造り出して、この涯《かぎ》りなき大洋を横ぎって、まだ知られざる国に渡り、その風土と文物とを究め尽したいという欲望。今や国内の人が、その封土《ほうど》の間《かん》に相争っている時に、この封土以外の無限の広大な天地に、無究の努力を揮《ふる》うことの愉快。それを想うと駒井は、自分というものに翼を与えて、天空の間を舞い、海闊《かいかつ》の間を踊り、過去と境遇の立場を、すっかり振い落してしまう。
そこでこの人は、物の力の絶大なることに驚喜する。物の力を極度まで利用することを知っている西洋人の脳の力に驚嘆する。西洋文明の粋を知ること漸く深くなって、好学の念がいよいよ強くなる。学べば学ぶほどに、彼我《ひが》の文明の相違の著しいことがわかる。将来の文明は機械の文明であって、当分の日本の仕事は、まず以てその機械の文明を吸い取ることだ。これより以上の急務はない――そうしてこの自分の「船を造る」という仕事が、一歩一歩とその理想に近づくことにおいて、今の日本の誰もが気のついていない仕事、気がついていても進んでこれに着手している人のない仕事、それがただ自分の手によってなされつつあるという自負心が、どのくらい駒井の心を高めるか知れない。
しかし、今宵だけは、どうしてもその前途と未来の空想に浸りきって、我を忘れることができない。
「金椎《キンツイ》、金椎」
駒井は何と思ったか、珍しい人の名を呼んでみましたが、返事がないので気がついた様子で、「そうか」と苦笑いをしながら立って、廊下伝いに足を運んで行きました。
事務室とも、小使室ともいうべき板張りの床、同じように机、腰掛で蝋燭《ろうそく》の火に向い、しきりに書を読んでいる少年。それは頭を芥子坊主《けしぼうず》にして支那服を着ている。駒井が扉《ドア》をあけて入って来ても、この少年はいっこう驚かず、うしろをも向かずに、机に向って書を読み耽《ふけ》っている。
「金椎《キンツイ》」
後ろから肩を叩いて名を呼んだので、はじめて少年はびっくりして、駒井の面《おもて》を見上げました。
駒井は、相変らずやっているな、という表情で少年に向い、有合わせのペンを取って紙片に「紅茶」
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