こ》らしてくれんずと、ある夜更けて、二三の番僧が、棒を構えてこの廊下に待受けていた。今宵も例によって人定まるを待ち、本尊の油を盗んで、この廊下を戻る篤学の雛僧《すうそう》。それとは知らぬ番僧どもは、有無《うむ》もいわさず、叩き伏せ叩きのめしてしまうと、脆《もろ》くも敢《あえ》なき最期《さいご》を遂げた。年経《としふ》る狐狸の類《たぐい》にやあらん、正体見届けんと燈《ともし》をさしつけて見ればこれは意外、日頃、同学の間に誉れ高き篤学の雛僧であったので、下手人らは青くなって怖れ、かつ哀しんだけれども、もう如何《いかん》ともする由がない。その後、この廊下には雛僧のこぼした油の痕《あと》が、拭うても拭うても生々しく、その油に辷《すべ》って倒れたほどの人が、やがて死ぬ。幾多の人命がそうして、油のために奪われたので、寺では怖れて、廊下をこぼって石段に換えてしまった。その石段を油坂というのであって、ここに住むほどの人で、その因縁《いんねん》を知らぬというはないはず。おぞましくも今、門番の又六がその因縁つきの油坂で転んだという。時も時で、主膳はいやな気持がして、またいらいらとしてきました。
 それだけで、又六からも、お吉からも、小坊主からも、なんとも音沙汰《おとさた》がないのに、夜はようやく更けてゆき、主膳はいよいよ眼が冴《さ》えかえって眠ることができません。
 まよなかとおぼしい時分に、障子と廊下をへだてた雨戸がホトホトと鳴る。
「神尾の殿様」
 呼ぶ声で、主膳がハッと驚かされる。空耳《そらみみ》ではなかったかと疑いながら、音のした方へ眼をつけて、
「誰じゃ」
「殿様、百蔵でございます。ちょっとここをおあけなすって」
 図々しい奴、しつこい奴、会いたくもない奴。しかし、こうして寝込みを襲われてみれば、主膳もだまってはおられない。
「何しに来た」
「殿様、お迎えに上りました。といいましても今晩のことではございません、どのみち、殿様に再び世に出ていただかなければならない時節になりましたから、そのお知らせかたがた……ちょっと、ここをおあけなすっていただけますまいか」

         二十八

 房州の洲崎《すのさき》で船の建造に一心を打込んでいた駒井甚三郎――その船は、いつぞや柳橋の船宿へ、そのころ日本唯一の西洋型船大工といわれた豆州《ずしゅう》戸田《へだ》の上田寅吉を招いて相談した通り、シコナと千代田型を参考にして、これに駒井自身の意匠を加えた西洋型。長さ十七間余、幅は二間半、馬力は六十。仕事は連れて来た寅吉の弟子二人と、附近の漁師の若い者が手伝う。
 終日、工事の監督に身を委《ゆだ》ねていた駒井能登守――ではない、もう疾《とう》の昔に殿様の籍を抜かれた駒井甚三郎。夜は例によって遠見の番所の一室に籠《こも》って、動力の研究に耽《ふけ》っている。
 八畳と六畳の二間。六畳の方の一間が南に向いて、窓を推《お》しさえすれば海をながめることができるようになっている。床の間に三挺の鉄砲、刀架に刀、脇差、柱にかかっている外套《がいとう》の着替、一隅には測量器械の類。机腰掛に陣取っている駒井甚三郎の髪を分けたハイカラな姿が、好んで用うる白くて光の強い西洋蝋燭の光とよくうつり合っていることも、以前に変りません。
 駒井甚三郎は、いつもするように研究に頭が熱してくると、手をさしのべて、窓を推《お》し、海の風に疲れた頭を吹かせる。
 番所の目の下は海で、この洲崎の鼻から見ると、内海と外洋《そとうみ》の二つの海を見ることができる。風|凪《な》ぎたる日、遠く外洋の方をながめると、物凄き一条の潮が渦巻き流れて伊豆の方へ走る。漁師がそれを「潮《しお》の路《みち》」と名づけて畏《おそ》れる。外《そと》の洋《うみ》で非業《ひごう》の死を遂げた幾多の亡霊が、この世の人に会いたさに、はるばると波路をたどってここまで来ると、右の「潮の路」が行手を遮《さえぎ》って、ここより内へは一寸も入れない。さりとて元の大洋へ戻すこともようしない。その意地悪い抑留を蒙《こうむ》った亡霊共は、この洲崎のほとりに集まって、昼は消えつ夜は燃え出して、港へ帰る船でも見つけようものならば、恨めしい声を出して、それを呼びとめるから、海に慣れた船頭漁師もおぞけ[#「おぞけ」に傍点]をふるって、一斉に櫓《ろ》を急がせて逃げて帰るという話。
 そのころの最新知識者であり、科学者である駒井甚三郎が、今宵はその亡霊に悩まされているというのは不思議なことです。駒井は今日このごろ頭が重く、何かの憂いに堪ゆることができない。憂いが悲しみとなって、心がしきりに沈んで行くのに堪えることができない。窓を推して見ると、亡霊の海波が悲愁の色を含んで、層々として来り迫るもののようです。潮流は地の理に従って流るべき方向へ流れているに過
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