又六がやって来ました。
「殿様、お加減がお悪いそうですが、どんなでございます」
「ああ、又六か」
「嚊《かか》あの奴も、頭が痛いなんぞといって、今朝から寝込んでしまいました」
「お吉も頭が痛い?」
「どうもお天気具合が悪いせい[#「せい」に傍点]でございましょうよ」
 主膳はこの時気の毒だという感じがしました。せっかく、十分の好意を以てもてなし[#「もてなし」に傍点]てくれたお吉の好意を蹂躙《じゅうりん》して、枕の上らないようにしてしまった昨夜の罪。それをお天気具合に帰《き》している又六の無邪気。それを思うと主膳は、かわいそうだとも済まないとも、慚《は》じ入るような気分になったのは、主膳としては珍しいことですが、これはむしろ主膳そのものの本性で、いつもそういう悔恨の時に、良心を酔わせる材料がないせい[#「せい」に傍点]かも知れません。
「お吉も病《や》み出したか、それはかわいそうだなあ」
「なあーに、たいしたことはございませんよ、根ががんじょうな奴ですから」
 又六は、昨夜、主膳が酒を飲んだことを知らないらしい。お吉が、それを又六には話していないらしい。してみれば無論、開《あ》かずの雪隠《せついん》以後の、乱暴を働いたことも、いっさい告げ口がましいことをしないから、又六は仕事から帰って早々、ただ病気だと信じて、主膳を見舞に来たのみであることは紛《まご》うべくもない。
「時候のせい[#「せい」に傍点]かも知れない、大事にしてやってくれ」
「有難うございます……それからあの、殿様、ただいま、お客様が、わたしン処《とこ》まで、おいでなすったでございます」
「ナニ、客が?」
「エエ、殿様にお目にかかりたいんだが、こちらへ伺っては少々都合が悪いから、わたしン処《とこ》でお目にかかりたいって、殿様に申し上げてくれと頼まれて参りました」
「うむ、それは誰だ」
「見慣れない旅のお方でございます、あの、お名前は百蔵さんとかおっしゃいました」
「うむ、がんりき[#「がんりき」に傍点]か」
 主膳は寝ながら、向き直って天井をながめ、ホッと息をつきました。
 憎い奴、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵。あのロクでなしが来なければ、こんなことはなかったのだ。ただ隠居のところから微酔《ほろよ》い機嫌で出て来た分には、こんなにまではならなかったのだ。あいつが途中でいやに気を持たせてそそのかしたために、お吉のところで毒気が廻ってしまったのだ。それに心を乱されたのはこっちの落度といわばいえ、あのロクでなしが、わざわざこのところを突留めて出向いて来たのは、そもそもこの神尾を、何かのダシに遣《つか》おうとの魂胆でなければ何だ。癪《しゃく》にさわる小悪党め、憎むには足らない奴だが、見たくもない。主膳はこう思って、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という奴が癪にさわってたまらないから、
「会えない、当分会えないから帰れといってくれ」
 主膳は、又六に向って、素気《そっけ》なくいいました。又六は、とりつく島がないから、
「はい」
といって、腰を浮かすだけです。
 又六が帰ると、行燈《あんどん》を点《とも》して来た小坊主の面《かお》を、主膳はすごい眼をして睨《にら》みつけたから、小坊主が怯《おび》えました。
「あのな、お前、用が済んだら門番のところまで頼まれてくれ。お吉が病気になったそうだが、加減はどうか、悪くなければ、お吉にちょっと来てくれるようにいってくれ」
「畏《かしこ》まりました」
 小坊主はおびえながら、承知して行ってしまいます。
 しかし、暫く待ってもお吉はやって参りません。主膳はその時|焦《じ》れてもみましたが、またかわいそうだとも思いました。しかしまた、来なければ来ないように言いわけがありそうなものを、小坊主はその返事をすら齎《もたら》さない。忘れたのか、ズルけたのか。
 その時分、庭で、けたたましい人の声。
「え、油坂で転んだ? それは誰だエ。気をつけなくちゃいけねえ。エ、誰が転んだのだエ?」
「又六さんが転んだんですよ」
「エ、又六がかい。何たらそそっかしいことだ、慣れているくせに」
 噪《さわ》ぎ立てた問題は、単に、又六が油坂で転んだというだけのこと。
 主膳は、そこでまたカッとしました。油坂は転んではならないところ。そこは、やはり大中寺七不思議の一つ。
 本堂から学寮への通路に当る油坂。昔は、そこを廊下で通《かよ》っていた。いつの頃か、学寮に篤学な雛僧《すうそう》があって、好学の念やみ難く、夜な夜な同僚のねしずまるを待って、ひそかに本尊の油を盗んで来て、それをわが机の上に点《とも》して書を学んだ。本尊の油の減りかげんが著《いちじる》しいので、早くも番僧の問題となった。これは必定《ひつじょう》、狐狸のいたずらに紛れもない、以後の見せしめに懲《
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