てお燗の仕度にかかろうとします。
 主膳は、さきほどがんりき[#「がんりき」に傍点]に焚きつけられて、もだもだといやな気がさしたのが、お吉のこの愛想で、また前のようにいい気持になりかけました。
 又六の女房お吉は、さして好い女というではないが、愛嬌があって、親切者で、日頃よく主膳の面倒を見てくれるから、主膳も好意をもっていたところへ、こうして下へも置かぬようにされると、つい、「それでは」という気になりました。
「まあ、こんなむさくるしいところへ、どうぞ殿様、これへお上りくださいませ」
 お吉は蓙《ござ》などを持って来て、すすめるものだから、主膳もついそこへ上り込んでしまいました。
「隠居のところで、御馳走になって、久しぶりで酩酊《めいてい》の有様、少し休ませてもらおうかな」
「ええ、どうぞ、何もございませんが」
 お吉はいそいそとして、酒の燗、有合わせの肴《さかな》を集めてもてなそうとする親切気、まだ醒《さ》めやらぬ酔眼で、その親切気を見ていると主膳は嬉しくなり、そのもてなし[#「もてなし」に傍点]を受けてみたい気になってゆきます。
 お吉の方では、こうして旧主に当る人をもてなす[#「もてなす」に傍点]のを光栄とし、取急いで膳立てをして、
「さあ、失礼でございますが」
 温かい酒の一献《いっこん》を主膳にすすめました。
 今日に限って、すべての環境が、主膳を温かい方へ、温かい方へ、とそそって行くようです。お吉のもてなし[#「もてなし」に傍点]を受けてその温かい酒の盃が唇に触れた時の心持は、隠居の時の苦々《にがにが》しいのとは違います。
 みこしを据えて飲む気になってみると、酒の味が一層うまい。そろそろと酔いが廻ってゆくと、半ば忠義気取りでもてなす[#「もてなす」に傍点]お吉の親切が、あだ[#「あだ」に傍点]者に見える。
 そこで、さいぜんのがんりき[#「がんりき」に傍点]のいい廻しを思い返してみると、たまらない気になる。先代の愛妾お絹と福村とは夫婦気取りで暮しているそうな。女も女なら、福村の奴も福村の奴だ。おれがこうして殊勝に引込んでいる気も知らないで、人もあろうに度し難い畜生共だ。江戸へ押しかけて、福村の奴を取って押えて泥を吐かしてやろうか。
 しかし、仕方があるまい。どのみち、おれも今までの仕来《しきた》りを考えてみれば、そう立派なこともいえないのだ。だが、いまいましい奴等だ。お絹の身持は言語道断《ごんごどうだん》、福村の奴もこれまで、どのくらい眼をかけてやったか知れないのに、ふざけた真似をする、外に女がないではあるまいに――年をとるほど油が乗るという淫婦の肉体ほど厄介なものはない。殺してしまわなければその油が抜けない。いまいましい話だ。それを思うと甘かった盃が急に苦くなります。
「殿様には、よくまあ御不自由の中に御辛抱をなさいます。世が世ならば、私共なんぞは、お傍へも寄ることはできませんのに、こんなところへお越し下さいまして、ほんとうに勿体《もったい》ないことでございます」
「いや、お吉、お前には何から何まで世話になるばかりで本当に済まぬ、主膳もこのまま朽ち果てるとも限るまいから、何かまた世に出づる時があらば、この恩報じは致すつもりだからな、又六にも悪くなくいっておいてくれよ」
「殿様、恐れ多いことでございます。宿《やど》も、殿様がお気の毒だ、お前はよくして上げなければならないと、いつでも申しておりますでございます」
「又六もなかなか心がけのよい者だ、主膳が世に出れば、このままでは置かないつもりだ」
 神尾主膳は、どうしたものか今夜に限って、しきりに世に出れば、世に出れば、が口の端《は》に出る。このごろはともかくも今の境遇に安んじて、それを楽しむ心さえ起りかけていたのに、今夜は急に、これを不足とするらしい。
「どう致しまして、殿様、私共はいつまでも殿様がこうしてこちらにおいであそばす方が、忠義ができて有難いと申しておりますのでございます。殿様が、以前の御身分にお戻りなされば、とてもお傍へも寄ることはできません、殿様のおためには、御出世がようございますか存じませんが、私たちのためには、こうしてお身軽くしておいでなさるのが何より有難いのでございます」
「いや、お吉、お前方の親切はほんとうに嬉しいぞ。それが本当だ、今まで拙者が交際していたやつらは、羽振《はぶ》りのよい時だけに限ったものだが、お前たちにはそれがないのが嬉しい、嬉しい。お吉、ほんの志じゃ、これをお前に取らせるぞ」
といって神尾主膳は差していた脇差を抜き取って、お吉の前に置きましたから、お吉がびっくりして、
「まあ、こんな結構なお差料《さしりょう》を、わたくしに……」
「取って置きやれ。ああ、いい心持になった。もう夜もかなり遅いことだろう、又六は今夜は帰るまいかな。
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