》かと思いますると憎らしい」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はこういって、またも酒樽を烈しくブラブラさせる。
「これ、酒樽に罪はない、そう手荒いことをするな」
「手荒いことをするなとおっしゃったって、これが憎まずにいられましょうか、さんざん、殿様をほろ[#「ほろ」に傍点]酔い機嫌のいい心持にして上げたうえに、また宿へお帰りになれば、寝酒というやつで、散々《さんざん》のお取持ちをする、思えば思えば、この樽めが憎らしい、憎らしい!」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、今度は、ブン廻すように酒樽を烈しく揺《ゆす》ると、神尾が笑い出し、
「いいかげんにして許してやってくれ。実は近頃、全く禁酒をしているのだ、ところが今宵《こよい》、碁敵《ごがたき》の隠居に招《よ》ばれて、碁に興が乗ってくると、思わず知らず盃に手をつけたのがこっちの抜かり……四五盃を重ねて、つい、いい心持になっているところへ、隠居が気を利かせたつもりで、その一樽《いっそん》をばお持たせということになったので、拙者の意志ではない、先方からの好意がかえって有難迷惑じゃ」
「さればこそでございます、それほど殿様が一生懸命に行い澄ましていらっしゃるのを、外から甘えてこっちのものにしようと企《たく》む奴、いよいよ以て容赦のならぬ樽め」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、いよいよ樽を虐待してみたが、それでも踏みこわすほどのことはなく、やがて、おとなしくなって、わざとらしく猫撫で声、
「神尾の殿様、憎いのはこいつばかりじゃございません」
「まだ憎み足りないか」
「憎み足りない段ではござりませぬ、ほんに骨身を食いさいてやりたいというのは、蒲焼《かばやき》の鰻《うなぎ》ではございませんが、年をとるほど油の乗る奴があるんでございます、見るたんびに油が乗って、舌たるいといったら堪《たま》ったものじゃありません、あれをむざむざ食う奴も食う奴、食われる奴も食われる奴、全く骨身を食いさいてやりたいほど、憎らしいもんです」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]」
「はい」
「その酒をここへブチまけてしまえ」
 神尾主膳はなんとなく焦《じ》れ出してきたように見える。
「それは勿体《もったい》ないことでございます」
「いいからブチまけてしまえ」
「勿体ないことでございますな、おいやならば私が頂戴致しましょう、お下《さが》りでありましょうとも、お余りでありましょうとも、うまい物には眼のないこのがんりき[#「がんりき」に傍点]、まして手入らずの生一本《きいっぽん》ときては……」

         二十六

 ほどなく大中寺の門前までやって来た時分に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、急に主膳にお暇乞いをして、明日にも改めてお伺い致しますと言って別れてしまいました。
 いかにも泊り込みそうな気合で来て、ふいに外《そ》れてしまったから、主膳も、拍子抜けの気味で、そうかといって、泊り込まれるよりは世話がないから、そのまま門前で、がんりき[#「がんりき」に傍点]と別れてしまいました。
 そこで主膳がもてあましたのは、隠居からおみやげに贈られた美酒一樽。僕《しもべ》の手から、がんりき[#「がんりき」に傍点]の手へ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の手からいま改めて主膳に返されてみると、主膳はそれを持扱いの体《てい》です。
 これは山門の中へは持ち込めない。そうかといって、ここへ無下《むげ》に打捨《うっちゃ》らかしてしまうのも冥利《みょうり》である。そこで、主膳は門番の戸を叩きました。
「どなたでございます」
というのは門番又六の女房お吉の声です。
「神尾じゃ、又六はおらぬか」
「まあ、殿様でございましたか」
 お吉が驚いて戸をあけて迎える。主膳は中へ入って、
「又六はおらぬか」
「皆川の方へ参りまして、まだ戻りませんでございます」
「左様か。お吉、迷惑だが、これを預かってもらいたい。いや預かるのではない、門前の誰かに欲しいものがあったら遣《や》ってしまってもよろしい」
「何でございますか。おや、これは結構な御酒ではございませんか」
「うむ、大平山の隠居から貰って来たのじゃ。又六は飲《い》けぬ口であったな」
「こんな結構なお酒を、ここいらの者に飲ませては勿体《もったい》のうございます、殿様のお召料《めしりょう》になさいませ」
「そうはいかない」
「それではこちらでお預かり申しておきましょう。ああ、ちょうどよろしうございます、鉄瓶があんなに沸いておりますから、少々ばかりここでお燗《かん》を致して差上げましょう、お一人では御不自由でございましょうから」
「それには及ばぬ」
「どうぞ、殿様、せっかく、隠居様のお心持でございますから、そうあそばして一口お召上りなさいませ」
 お吉は甲斐甲斐しく、この酒を受取っ
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