くぐ》る時分、酔いが廻って主膳は陶然《とうぜん》たる心持になりました。
 ちょうど、向うから無提灯で来た旅の者――月夜ですから無提灯が当り前ですけれども、それにしても旅慣れた姿、この間道をよく登って来る近在の百姓とも思われません。
 すれ違った時に先方の合羽《かっぱ》が、
「モシ、失礼でございますが、神尾の殿様ではいらっしゃいませんか」
「なに、そちは誰じゃ」
 そこで神尾が踏みとどまると、旅の者は傍へよってきて、小腰をかがめ、
「百蔵でございます」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]か」
 神尾主膳が苦々《にがにが》しげに立っていると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はなれなれしく、
「これはよいところでお目にかかりました、実は、殿様がこちらにおいでなさることを承って参りましたのですが、ともかく、大平山へ参詣致しましてから、改めてお伺い致そうとこう考えていたところなんでございます、ここでお目にかかったのは何より。そうして殿様は、これからどちらへお越しになろうというんでございますか」
「いや戻り道だ、大平神社の隠居殿を訪ねて、これから大中寺へ戻ろうとするところじゃ」
「左様でございますか」
「百蔵、お前はまた何しに、こんなところへ来たのだ」
「少々ばかり信心の筋がございましてね。それともう一つは、ぜひお久しぶりで殿様の御機嫌を伺いたいと、こう思って参りましたんでございます」
「それは有難いような、迷惑なような次第だ」
「いかがでしょう、これから殿様のお伴《とも》を願いましては」
「左様……」
 主膳は、ちょっと考えていたが、隠居の僕《しもべ》を顧みて、
「これこれ若い衆、そちは、もうよいから帰らっしゃい、ここから帰って、隠居殿によろしく申してくれ」
「いやナニ、せっかくでございますから、あちらまでおともをさせていただきましょう」
「若い衆さん……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、隠居のしもべを見ていいました。
「お帰んなすって下さい、私が殿様のおともを致して、無事にお送り申し上げて参りますから、御安心なさるように……おっと、それはおみやげでございますか、がんりき[#「がんりき」に傍点]が頂戴して持って参りましょう」
といって、僕《しもべ》の手にしていた美酒一樽を、早くもがんりき[#「がんりき」に傍点]が受取ってしまいました。
 隠居の僕はぜひなくお暇をいただいたわけで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が代っておみやげの美酒一樽をぶらさげ、提灯は断わってしまって、二人が相携えて、大平山を大中寺の方へ、山間《やまあい》の小径《こみち》を伝うて下ります。
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、そちはどこで拙者の隠れ家を聞いて来た」
「ええ、福村様から承って参りました」
「福村から? 福村はどうしている」
「相変らず……お盛んな御様子でございました」
「そうか」
「時に神尾の殿様、あなた様はいったい、もうこの土地で、一生を埋《うず》めておしまいになるつもりでございますか、江戸の方には未練をお残しなさるようなことはございませんのですか」
「そうさなあ、住めば都の風といって、このごろのように行い澄ました心持になってみると、こういった生涯にもまた相当の味があるものでな」
「ははあ、では、その大中寺とやらで、御修行をなすっていらっしゃるんでございますね、御修行が積んだら、ゆくゆくは一カ寺の御住職にでもおなりなさるつもりで……いや、頼もしいことでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、わざとらしく一樽の美酒をブラブラさせる。
「何をいっているのだ」
 神尾も久しぶりで相当の話敵《はなしがたき》が出来たような気分で、がんりき[#「がんりき」に傍点]の相手になって、ブラブラと小径をたどる。
「そりやずいぶんと結構でございますなあ、殿様がそういう結構なお心になったとは露知らず、世間にはずいぶんふざけた奴が多いので、いやになっちゃいますなあ」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、そちは妙ないい廻しを致すではないか」
「全く腹が立っちまいますねえ、せっかく、発心《ほっしん》なすって功徳《くどく》を積もうとなさる殊勝なお心がけを、はたからぶちこわして行く奴が多いんで、情けなくなっちまう」
「何がどうしたのだ、誰か修行の妨げでもしたというのか」
「まあ、早い話が……この酒樽なんぞも、そのロクでなしの一人、ではない一箇《ひとつ》のうちでございましょう、こいつが」
といってがんりき[#「がんりき」に傍点]は、その提げていた酒樽を、邪慳《じゃけん》にブラブラさせる。
「その酒樽が……何か悪事でも働いたというのか」
「悪事どころじゃございません、第一、御修行中の殿様を、今、お見かけ申せば、どうやらいい心持にして上げたのも、こいつの仕業《しわざ
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